中飛車の恋

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 それから僕はちょくちょく部室に訪れるようになった。みどり先生は本当にどんなときでもいた。  教室に話し相手がいない僕にとって放課後みどり先生と話すのだけが学校に来る楽しみだった。どれだけ理不尽なことが教室で起きても、どれだけ胸の内に暗い嵐が吹き荒れても、一日の終わりにみどり先生と将棋を指しながら話をすると、安らかな気持ちで学校を後にすることができた。  まれに他の部員が来た時には対局中でも席を譲って部室から立ち去った。彼らはもう一人の僕なのだから。 「何かあったの?」  二年生の冬の初め。部室に現れた僕の顔を見て、普段無頓着なみどり先生が珍しく心配そうに声を掛けて来た。それくらい僕の表情は暗く歪んでいたのだろう。 「生きていたんです……父親が」  最近、母さんが転職して銀行口座を新規に開設する必要があり、戸籍謄本を役所で取得した。母さんが引き出しにしまってあったそれを、僕は偶然目にしてしまったのだ。  戸籍謄本の身分事項には「離婚」と記載されていた。  結婚後、僕が物心つく前に父親は交通事故で亡くなったと母さんからは聞かされていた。そのときに弁護士だったとも。僕はそんな記憶に存在しない父親に憧れて自分も弁護士になるつもりでいた。……でも、きっと全部嘘だったのだ。  おかしいとは思っていた。僕は父方の祖父母や親戚に会ったことがなかったし、住んでいるアパートにも写真以外に父親の痕跡は何も残っていなかった。ただ母さんが物語る「立派な弁護士」という話からしか僕には生前の父親を思い描く術がなかった。  成長するにつれてそういう状況に疑念が生まれたけど、怪物に背後から肩をつかまれるような恐怖を覚えてずっと目を向けないようにしていた。だってもし本当にそうだとしたら、僕は笑ってしまうくらい間抜けじゃないか。学校での孤独な戦いもただのコントだ。  それに、なら一体僕は何者だというのだろう? フィクションを信じて生きて来て、得体の知れない男の遺伝子が組み込まれた僕の存在は人造人間のように不確かだ。  意識が遠のくような呆然とした感覚の中、消えずに残った言葉が一つだけあった。 「また将棋打ちに来なさいね。私は毎日ここにいるから」  
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