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僕は受験勉強に没頭した。
けれども、高三の夏になっても模試の成績は散々だった。打ちひしがれた僕は久しぶりに将棋部の部室に訪れた。先生はいつも通り将棋盤を前に頬杖を突いていた。夏の夕暮れの空をぼんやりと眺めていた目をこちらに向ける。
「久しぶりだね。元気だった?」
私大の法学部を受験する僕は春から数学の授業を取っていないし、先生とこうして個人的に会話を交わすのはほぼ一年振りだった。
みどり先生と会いたくなかった。会えば心が乱れるのがわかっていたから。この大事な時期に教師への片想いに懊悩する余裕なんて僕にはない。
それでも先生と将棋を指すことでしか、人生の分岐点の悩みの答えを導き出す術が僕にはなかった。
幸いなことに部室には扇風機が置かれていた。先生がシャツの第二ボタンを留めていることに僕は心底安堵した。
初手で中飛車を指すと伏し目がちに口を開く。
「模試の合格判定がDなんです。このままでは志望校には受からないと思います」
みどり先生はいつものように気のない声で「ふーん」と言った。僕は構わず続ける。
「家庭教師を頼もうと思っています。もう予備校にも通っているけど」
その言葉を聞いて、みどり先生は駒を手にしたまま動きを止めた。
「正直、家計は苦しいですけど、母さんは残業を増やすから構わないと言ってくれています。親孝行は……」
僕はしばらく躊躇してから言葉を吐き出した。
「……僕が弁護士になってからでもできますよね?」
僕は額に冷たい汗がにじむのを感じた。
必死だった。先生からいつかのように、「朝比奈くんがそう思うなら、それで良いんじゃない」と言ってもらいたくて。仕事で疲れている母さんの顔を見る度に感じる罪悪感を、あのときの不安と同じように魔法みたいに消してもらいたかった。
みどり先生は一瞬遠い目をすると、指先に挟んだままになっていた駒を指した。パチンというその何気ない音がまるで灯台から響く霧笛のように感じられた。
「朝比奈くん、二歩だよ」
慌てて盤上を見る。だが、二歩なんて指すわけがない。僕はまだ先生の歩を取っていないのだから。意味がわからずみどり先生を見る。
「朝比奈くんの負けだよ」
そうして盤上の駒をさらうと、みどり先生はさっさと片づけ始めた。僕は先生の意図を察すると、無言で立ち上がりカバンをつかんだ。部室を出て行く僕の背中にみどり先生の声が響く。
「またいつでも来てね。私はここで待ってるからさ」
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