彼岸桜より咲き出でて

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 楽しげに響く子供たちの笑い声に揺り起こされて、少しばかり遅い朝をむかえた。長い夢を観ていた。夢だとわかっていても、そこから脱け出すことができないイヤな夢だった。外が賑やかなのはきっと花のせいだろう、桜並木が見頃をむかえているはずだ。遮光カーテンの隙間から射し込む光に目を細め、その向こうにある世界に思いを馳せる。  (うら)らかな春の陽を浴びながら、桜の花弁を追って(はしゃ)ぐ子供たち。弥生、三月、江戸彼岸。はらりはらりと舞う欠片たちが、私の指からすり抜けるようにおちていく。淡紅(うすべに)色の一重咲き。貌を無くしてしまいそうなそれを、果たして私は、美しいと感じることが出きるだろうか。 厭人(えんじん)たる自身の気質を見出だし形成されたのは、幼少期ではなかったか。私は、喜怒哀楽を表に出すのが苦手だった。両親の顔は遺影でしか知らなかったし、思い出などもない。幼稚園や保育園に通わなかった為、同じ年頃の子供と遊んだことがなかった。人との関わりが希薄だと目を合わせるのが怖くなり、いつしか下ばかり見るのが癖になった。たまに口角を上げぎこちない笑顔をみせたようだが、思えばそれは、不安を隠す本能的な対応術で心などなかった。 そんな、少女時代を過ごした。 こぼれ桜の花ひとひら、揺蕩(たゆた)う君は(たお)やかに(したた)か。……ふと、遠い記憶がよみがえった。高校生のとき、私は地獄の中で恋をしたことがある。告白どころか会話も交わさず、名前も知らなかった。でも確かにあれは、恋というものに違いなかろう。  彼はよく、中庭の木陰のベンチで目を瞑り、すらっとした足を組んで腰かけていた。夏でも冬でも、彼を見かける時にはいつだってそこにいた。たまに女子が話しかけてきて、きっと告白か何かをして振られたのか、その()が泣きながら走って行ってしまうという場面を、遠くから見ることもあった。彼はどんな女の子が来ても、泰然な態度で、彼女が見えなくなるまで視線を向けていた。見えなくなると、スウッと深呼吸をしてから、また瞼を閉じて空を仰ぐ。そんな男だった。  卒業式の締めのあいさつが終わり、私はそそくさと教室に戻って、家に逃げる準備をしていた。暗く(ものう)げな高校生活にピリオドを打つために。ざわつく教室の中で私はひとり、卒業証書がはいった筒と、寄せ書きのない卒業アルバムを淡々とバッグに入れる。 ……哀歓を共にする者などいないのだ、さっさと帰ってしまおう。 渡り廊下を歩いているとき、ひとつだけ強い風が吹いた。吃驚(びっくり)して体を小さくかがめると、中庭のあの木から桜の花弁が舞い散って、風に身を任せて飛んでいくのがうっすらと見えた。そこにやはり彼はいた。ボタンがひとつもない学ランを肩に引っ掛け、癖のない柔らかな黒髪を(なび)かせながらベンチの前で立っていた。なんだか切なそうな顔をして桜の木を見上げていた。あまりにもそれが感動的で、見入ってしまった。すると彼は視線に気づいたのか、私のほうを向いて軽く手を振ってくれた。そして彼は儚い笑顔をした。今にも泣き出しそうな顔で微笑むものだから、私は咄嗟に目を瞑り動けなくなった。けれども瞼には、鮮明に彼の顔が映った。刹那、私の頬を一粒の雫が伝った。 ――どれ程の時間が経ったのか、気が付くと彼はもうそこにいなかった。青い空はオレンジ色に染まりかけていて、時計を見ると17時に迫っている。 ……もう帰ろう。 空気のように軽いバッグと、いろんな感情で溢れかえっている重い心を抱えて、急いで家に帰った。 翌日の新聞で、名を知りました。 入水したのは君だったのですね。 さようなら。 たぶん、初恋だった……  彼の表情を忘れていない。私は今も、その時間で生きている。あのときの私でいる。なにも変わっていない、変わろうとさえしなかった。瀉血(しゃけつ)した血をインクにして、心魂(しんこん)という原稿用紙に、名も知らぬ、いや、名前すら聞くことが出来なかった彼のことを毎日、毎時間、毎分毎秒、綴り続けていたあの頃と。  思いきってカーテンを開けると、眩しい日差しと、ピンク色の絨毯が敷かれたアスファルトが窓ガラスを通して瞳に入り、こっちへおいでと誘う。  ――彼岸桜より咲き出でて――  あぁ、そうだ……  私は窓を開け、空を仰いで身を投げ出し、うんと唸ってまっすぐ手を伸ばした。 揺蕩うひとひらを掬おうと、子供のように、ただ、一心に。 『彼岸桜より咲き出でて、一重、八重追々に咲き続き、弥生の末まで花のたゆることなし』※ 変わろう、変わらなくちゃいけない。 きっと、変われるはずだ。 了 ・・・ 参考文献 ※『江戸名所花暦(1827)』より引用
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