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第一章 出会い
――10年前、19××年のイタリア。
「なあ、いいだろ? 今夜……」
「や、やめてッ…離してください!」
「あ! 待てよ!!」
とある港街の繁華街で、希望は男の手を振り払い、逃げ出した。
希望は数日前からこの男に付き纏われていた。男は自分にはマフィアの知り合いがいて、中心街での歌の仕事を用意してやると言う。
しかし、下卑た笑みを浮かべる男の目的が希望の歌ではないことは明らかだった。
この国ではマフィアが政治、経済、司法にまで影響力を持っていた。
マフィアと関係を持ち、後ろ盾を得られれば富と名声を手に入れることができる。逆に無碍に扱えばどうなるか、希望もわからないわけではない。
だが、希望は断固として首を縦に振らなかった。なぜなら希望は――
「たっただいまっ!」
息を切らした希望が駆け込んできて、店主と馴染みの常連客たちが驚いて目を向ける。
「どうしたんだ、そんなに慌てて……まさか、また……!?」
「……」
心優しい店主は、黙って俯く希望を見て、ハッとして顔色を変えた。
「またあいつか? しつけぇやろうだ!」
常連客の男が持っていた酒瓶をガンッとテーブルに叩きつけ、憤りを露わにする。『性質の悪いチンピラに付き纏われている』という希望の事情は常連客たちも知るところであり、気にかけていた。
「ここはまだ知られていないだろう? 安心しなさい」
大衆食堂とバーを合わせたようなこの店は、町の中心街から少し離れた下町にある。希望は数ヶ月前からこの店で住み込みで働いていた。
希望は店主の言葉に頷くが、俯いたまま力なく肩を落としている。
「……クソッ、なんとかならねぇもんかね」
「でも、あのコルネオファミリーと繋がりがあるって息巻いてたぞ?」
「それがもし本当なら、あんな奴を野放しにするわけないだろ」
「だとしても、下手に手出しするのは危険だって」
「でも、放っておいたら希望ちゃんに何をするか……!」
「みんな!」
恐れと怒りに満ちた雰囲気の店内に希望の声が響いた。店主や常連客たちはハッと我に返ったように静まった。
「俺は大丈夫! 心配してくれてありがと!」
顔を上げた希望は笑っていた。これ以上心配をかけまいとする希望の優しさを感じ取り、気丈に振る舞う姿に客や店主の胸がますます痛む。
「おじさん、俺も着替えたらすぐ手伝うね!」
「あ、ああ……」
店主にも笑顔を向けて、希望は裏口へから出ていく。
希望が借りているのは、店の倉庫の屋根裏部屋だ。部屋へと続く外側の階段を上がっていく背中を、彼らは見守るしかなかった。
「……なんとかしてやりたいが……」
誰からとなく呟くが、その先は沈黙に消えていく。
この国で、マフィアの名を掲げる無法者に抗う術などなかった。
***
一方希望は、部屋に入って戸を閉めると、
「……ッあんのクソ野郎!!」
椅子を蹴り飛ばした。椅子は部屋の端まで転がって壁に激突しガランッガタンッと音を立てた。
「希望くん?! 今の音は?!」
「あ、やべ!」
希望は慌てて窓から身を乗り出して、階段下から心配そうに見つける店主に「てへ!」とウインクをして舌を出した。
「ごめんなさぁーい! 滑って転んじゃったぁ!」
「だ、大丈夫かい?! 怪我はないか?」
「大丈夫でーす! お騒がせしました! すぐ行きまーす!」
心配そうな店主に答えて、希望は部屋へと引っ込んだ。
「ふう、あぶないあぶない……ああ! ムカつく!! ふざけやがってあの××××! エロい目で見んじゃねぇよ! 気持ち悪いな! マフィアがなんだ! 次会ったら×××して××××を細切れにしてやるからなッ!!」
ぎりぎりと奥歯を噛み、呪いの言葉を吐き捨てる。その間にも、休む間もなく、枕が八つ当たりの拳を受け入れていた。
どんな誘惑にも恐喝にも、希望は断固として首を縦に振らない。決して屈しない。
なぜなら希望はマフィアが大嫌いだからだ。
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