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希望は身支度を整えると、十字架を握り締め、窓辺の前に膝をついた。
夜になったら、真実と誠実の月明かりが降り注ぐ窓辺に百合の花を飾り、祈りを捧げる。
これがこの国の宗教の習わしだ。
百合は女神の象徴の花で、十字架は希望の母の唯一の形見だった。教会にいた時も、教会を出てからも、希望は祈りの時間を欠かしたことはない。
ただ、今日の夜空は雲に覆われていて、月明かりも星も見えなかった。
「……どうかお守りください」
***
「…あれ? 今日はお客さん少ないね?」
気持ちも空も晴れないままだったが、希望は店に降りてきて首を傾げた。いつもと違って静かな店内で、店主はうむ、と頷いた。
「どうやら郊外で火事があったらしくてね、駆り出されてるのかな。……出かけるのかね?」
「うん、仕事あるし」
「大丈夫かい? 昼間のこともあるし、最近このあたりも物騒になってきた…。あまり夜に出歩くのは…」
心配そうな店主に、希望はにこっと微笑み、首を横に振った。
「ありがとう。でも、みんなが待ってるから」
「そうか……。気を付けて。神の加護がありますように」
***
ローブを羽織り、フードで顔を隠す。いつもより念入りに深く被って、昼とは違った賑わいを見せる街の隅を、注意深く歩いていく。
希望にとって警戒すべきは、マフィアとの関係を誇示する男だけではなかった。
最初は故郷から出て初めて働いた店の男だった。
働き始めてすぐのことだった。男はふたりきりになった途端、いきなり希望の尻を撫でて、身体に触ってきた。故郷ではそんな奴はいなかったから驚いて、一瞬固まってしまった。けれど、すぐにゾワゾワァ、と寒気と悪寒がして、気付いたら男のだらしなく弛んだ腹に拳を叩き込んでいた。
仕方ないよね。だって気持ち悪かったんだもん。
その後は数人がかりで殴られ、小屋に閉じ込められたが、何とか他の街に逃げることができた。
他の街でも執拗に声をかけられたり、路上やステージバーで歌っていると何故か客同士の喧嘩が乱闘に発展してしまうなどの災難は続いたが、今の街に逃げてきて、ようやく生活が落ち着いてきたのに。
――なのに、どうしてまたこんなことに……?
……昼間は何とか逃げ切ったけど、また見つかったらどうしよう。
はぁーとため息をついて俯いていた希望は、フラフラと目の前に現れた男に気付くのが遅れた。
ハッとして避けようとしたが、肩と肩がぶつかって男は大きくよろめき、持っていた酒瓶は地面に落ちてガシャン、と割れた。
「あっ、すいません!」
「ああ?」
ぶつかった男がふらつきながら、希望を睨みつける。男がずいっと顔を近づけた時に、酒の匂いと口臭に、思わず顔を背けてしまった。そのまま逃げようとする希望の腕を男が掴む。
「待てよ、この…」
男が乱暴に腕を引くと、フードが僅かにずれた。その途端、男が少し弾んだ声で「お?」と希望を覗き込む。
「なんだぁ兄ちゃん、可愛い顔してんなぁ? いくらだ? ん?」
「……ッ」
希望は男を睨んだが、仕事のことを思い出して、首を振る。
ここで騒いで、あいつに見つかったら最悪だ。
男を無視して立ち去ろうとするが、さらに強い力で引っ張られた。
「おいおい、そりゃねぇだろ? 駄目にしちまった酒代くらいは身体で払ってくれよぉ? なあ、顔よく見せてみな」
「やっ…!」
乱暴に引っ張られて、ローブがずれ、フードの下から希望の顔が露わになる。
泥酔して視界が歪んでいる男の目に映るのは、暗闇の中でも煌めく金色の瞳、くっきりと眼を覆う長い睫毛。たっぷりと潤んだ瞳はじろっと睨みつけて、ぎゅっと固く結ばれた厚めの唇が怒りと悔しさに震えている。
「おい、やめろ!」
すっかり心を奪われていた男は、はっとして希望を離した。希望の代わりに男を睨むのは、近くの店から飛び出してきた若い男だった。
「しつけえんだよ! 弱いもんいじめしてんじゃねぇぞ」
「……ちっ」
酔っ払いの男はバツの悪そうな顔をして、足早にその場を去っていった。
「あ、ありがとう……」
「あんた、歌い手の子だろ? 最近よく噂になってたんだ。良い声してるって」
「ほんと? ありがとう!」
褒められたのが嬉しくて、希望は思わず顔を上げた。バチッと目が合う。
――あっ
希望が気付いた時には遅かった。
相手の男は、目を見開いて希望を凝視したかと思うと、顔から身体へと舐めるように視線を這わせた。鼻の穴が膨らみ、口元がだらしなくにやけていく。
「……な、なあ、よかったら、俺の店に来ないか? 一杯奢るし、他にも何か必要ならいくらでも」
鼻息を荒くして伸ばしてきた手にぞっとして、希望は思わずぱっと離れた。男は「え」と驚いたように間の抜けた顔になる。
「あ…えっと…」
男はぽかんとしたままだ。拒まれたことを理解しきれていないらしい。気付かれて面倒なことになる前に逃げよう、と希望はにっこりと愛想笑いをした。
「ほんとにありがとう! また今度寄らせてもらうね! じゃあまた!」
「あ…」
名残惜しそうな男の声を背に、希望はもう一度深くフードを被って顔を隠して逃げだした。
――そういえば店主のおじさんや常連のお客さんたちから、周辺の街はマフィアの抗争のせいですっかり荒れていて、最近ではこの街の中心街でも物騒な気配が漂っているとは聞いたことがある。
そうだ、きっとそのせいだ。
マフィアの争いのせいで、街が荒んで、皆もおかしくなったんだ。俺の災難もぜんぶそのせいだ。
そして、これからも、そうかもしれない。
……だから、マフィアなんて嫌いなんだ! クソったれ!!
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