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――あーあ、また約束しちゃった…。これじゃあ当分街を出れないや。
歌の仕事を得るきっかけになったのは彼女のおかげだ。
まだその頃の希望は店の手伝いをしていた。たびたび食事をご馳走してくれる彼女に自分の境遇を話したところ、「マフィアが欲しがる歌声を聞きたいわ」と言われ即興で歌った。それを気に入った彼女は、自分が働く館に呼んで、他の娼婦たちへの慰めとして披露させたのだ。
それから、娼館にいた客からの紹介でステージバーに呼ばれたり、別の娼館からも声がかかるようになったり、と少しずつ仕事が増えた。
彼女は今でもこうして呼んでくれたり、食事をご馳走してくれたりと優しくしてくれる。今日もたくさんお金をくれた。だけど、どこか違和感があった。
――雰囲気が変わった気がする……。
いつもは細くしなやかな指先で擽るように撫でてくれるのに、さっき彼女に握られた手はギリギリと爪が食い込むくらい痛かった。もともとミステリアスで謎めいた人だったけど、なんだかちょっと怖い。
……よく眠れるってなんだろう?
確かに俺は子守唄も得意だ。故郷の教会でもではちびっこたちを面倒見ていたから。
俺の歌にそんな力があったらいいけど、そんなことはない。自分が1番よくわかってる。そんな魔法のような力があったら、今頃は……。
……でも、本当に顔色が悪かったなぁ。
艶々とした白くて綺麗な肌のグラマラスなお姉さんだったのに。あんなに細くなって……。
……もしかして、お姉さんも怖くて眠れないのかな?
そうだよね、遠いとは言え同じ娼館が襲われたんだ。一か月ぶりに会ったけど、他の娼婦から最近外にも出ていないらしいと聞いた。ますます心配だ。
俺の歌で少しでも良くなるなら……。
――……でも……
この街は港町で船乗りや漁師が多いから、みんな歌が好きなんだと思う。
俺も歌が好きだ。
小さい頃から悲しい別れも寂しい夜も祈りと歌が俺を癒やして、励ましてくれた。
……本当は仕事だけじゃなくて、好きな時に好きなだけ歌いたい。ただ、これ以上目立つと、また街を出ていかなきゃいけなくなるかもしれない。
じっと手を見ると、爪が食い込んだ跡が残っていた。冷たくて白くて細い手を放ってはおけないと思った。
――俺の歌が必要だっていう人がいるなら……もう少しだけ頑張ろうかな。
「よお」
気持ちを新たにしようとした希望の耳に、無情にもその声が響いた。
「やっと見つけたぜ。逃げるなんてひでぇじゃねぇか。なあ?」
日中にしつこく言い寄ってきた男と取り巻き数人、希望の前に立ちふさがった。もう帰るばかりだと思って油断していた。
ニヤニヤと取り巻きたちと笑っている姿に顔を顰める。返事はせずに、フードを深く被り直して通り過ぎようと歩き出した。
「待てよ!」
「っ…!」
咄嗟に逃げようとしたが、今回は男一人ではない。あっという間に、取り囲まれてしまった。
両手をそれぞれ別の男たちに掴まれて、振り払おうにも二人掛かりでは叶わない。取り巻きは他にも数人周りにいて、通行人に「見てんじゃねぇ」と威嚇している。助けは期待できないだろう。
「は、離して…ッ!」
男は希望の前に立つと、バサッと乱暴にフードを払い除けた。
「っ…!」
取り巻きたちは希望を見て、お、わ、と少し驚きながらも、無遠慮にじろじろと見つめる。懸命に隠していたのをあっさりと暴かれて、希望の表情が悔しさが滲んだ。
「な? 上物だろ?」
男が得意げに言うと、取り巻きたちは頷く。男は満足げに笑っている。
――ッなんでお前が褒められたみたいになってんだよ!! 俺の顔なのに!!
殴りかかりたいが、人数が多過ぎる。希望は込み上げる怒りを抑え込んだ。
「は、離してください……!」
「はー? おいおい、何が気に入らないんだ?」
男は呆れたようにため息をついた。
「何が不満なんだよ。俺が口を利いてやれば、中心街での仕事も、もっとでかい街の仕事だって紹介できる。金も名声も手に入る。お前だって、いつまでもこんなとこで娼婦や酔っぱらいを相手にしてたくないだろ?」
希望は眉を寄せ、男を睨んだ。
――有名になりたいわけじゃない。
お金はほしいけど、生活ができるだけあればいいんだ。怖いこともあるけど、お姉さんやおじさんたちはいっぱい褒めてくれるし、ご飯くれるし、優しくしてくれるから好きだ。
それに俺はしつこくて乱暴な男が嫌いなんだ! つまりお前だ!!
と、言いたいことは山ほどあったが、言っても通じないことはわかっていた。
答える代わりに顔を背けて、腕に力を込める。
「……離せ…ッ!」
「あーあ、惜しいよなあ」
男は希望の顎をぐいっと掴んで自分に向けさせた。
「こんな可愛い顔してんのに、俺に逆らうなんて。……そう何度も逃げられると思うなよ」
「……ッ!」
嘲笑うような笑みを浮かべていた男が、苛立たしげに希望を睨み、顔を掴む手に力を込めた。僅かにを感じ顔を顰める。
「どれだけ拒んでも無駄だって気づけよ。大人しくしてりゃあ可愛がってやるからさ、なあ?」
男がまた、にやぁっと笑った。
これだけの人数を集められるということは、こんな男でもそれなりの影響力を持っているのだろう。
大人しく従えば好きなだけ歌って暮らしたいという希望の願いが叶うかもしれない。
ただ、ほんの少し我慢すればいいだけだ。
この手を受け入れればいい。
舐めるような視線を、身体を這う手を。
受け入れる。
我慢。
少しだけ。
……無理!
ブワッと沸き起こった嫌悪感に身を任せて、腕を掴む男の足を思いっきり踏みつける。
痛みに耐えられず男は「ぐあっ」と悲鳴を上げて腕を掴む力を弱めた。反対側にいる男も驚いて、拘束が緩む。その瞬間、肘鉄を叩き込んだ。
「ごはっ」と前のめりに倒れる男を蹴り飛ばせば、周りの男を巻き込んで倒れる。倒れた2人を飛び越えて、希望は逃げ出した
「あ!? てめえ!!」
「追え!!」
男たちの怒号が聞こえたが、希望は振り返らない。
……我慢する?! 無理無理無理! 絶対無理!
今だって触られるのも、見られるのだって吐きそうなくらい気持ち悪ぃのに!
だいたいあいつ、自分がマフィアじゃないのに偉そうにしててなんかイヤ! 鼻息荒いし香水は臭いし服のセンスも最悪! 顔だって全然タイプじゃないし、ぜぇ――ったい無理!!
怒りの身を任せながら、できるだけ狭い道を選んで駆け抜ける。
裏道には木箱やガラスの瓶、古びた家具や金属のかけらが無造作に積まれていた。危ういバランスのそれらを、蹴り飛ばしたり引っこ抜いたりして、次から次へと崩して逃げる。
ゆっくり倒れていく木箱からガラス瓶が降り注ぐのを見届けてまた走った。
「うわあああ?!」
悲鳴と派手な崩壊音が重なるようにして、夜の街に響き渡る。
「…ッてめえ! ふざけやがって! いいのか?! 後悔するぞ!? お前みてぇなガキ一匹、どうにでもできるんだからな!!」
「うるせえ!! できてねぇだろバァァ――――カ!!」
崩れた瓦礫の奥から、呻く声と負け犬に遠吠えが聞こえた。そんな彼らに向けて中指を立てて、希望はさらに狭く暗い路地裏へと逃げ込んだ。
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