236人が本棚に入れています
本棚に追加
「はあ、はあっ、はぁっ……!」
しばらく走って、壁に手をつき、よろめく身体を支える。
振り向いて耳をすませるが、追ってくる気配はない。まだ瓦礫の中で呻いているのかもしれない。一生そうしていればいいんだ。
「……はぁー…もうヤダ……」
ため息をついて、とぼとぼと暗い道を歩く。
歌えば歌うほど、マフィアの存在が希望の生活を脅かし、今もまた日常に忍び寄る。どこに逃げても平穏とは程遠い。
「……俺はただ自由に歌いたいだけなのに」
憂鬱な気持ちで暗くて狭い路地裏を歩く。空を仰いで、月に問いかける。
――俺が何をしたっていうの、神様。
しかしそこには――わかってはいたが――真っ暗な雲に覆われた漆黒が広がっているだけだった。
ああ、月も星も見えないし、寒いし、最悪。
どうして、こんな目に。
好きな場所で自由に歌うこともままならなくて、希望は誰を憎んでいいかも分からず、ただただ空を見上げていた。
路地裏から眺める空は、あまりにも狭かった。これでは星も輝くことはないだろう。
幼い頃見た、海と空の水平線が交わり解けていくような広くて遠い夜空が恋しい。
それでも、どこかに煌めくものを探して、希望は空を見ていた。
だから希望は気づかなかった。
案の定、それに躓いた。
「痛っ!」
「いてっ」
「……え?!」
自分以外の声に気づき、転んだ痛みも忘れ、振り向いた。
最初に目に入ったのは長い脚だ。
その先を目で追うと、見知らぬ男が壁に背を預け、気だるげに座り込んでいた。男は煙草を咥えていたが、不思議なことに、火はついていない。
けれど今の希望にとっては、些細なことだ。
「……ひっ!」
希望は、その光景に思わず後退る。
男の白いスラックスは泥や砂で薄汚れ、血に塗れていた。黒いワイシャツは血の色を隠してしまっているが、同じくらい血に濡れているのだろう。路地裏を覆う酒やゴミの臭いに紛れてはいるが、血の匂いがした。
男もまた、希望ほどではないが同じように驚いてはいるようだ。僅かだが目を丸くし、希望を見つめている。
けれど怯えた様子の希望を見つめて、ふっ、と微かに笑った。
「……火、持ってる?」
今にも雪が降り出しそうな、漆黒の空の下。
満月も星も見えない夜。
俺は星を探していたはずなのに。
見つけたのは、深い暗闇に生きるあの人だった。
――この夜の出会いが、俺の人生を大きく変えてしまったんだ。
最初のコメントを投稿しよう!