234人が本棚に入れています
本棚に追加
序章 歌姫の回想録(メモワール)
「これでおしまい、と」
ぎゅうぎゅうに詰め込んだトランクの上に乗っかって、パチンッと留め具をはめる。
ふう、と一息ついて部屋を見渡した。
「……あっけないもんだなぁ」
旅立ちの準備を終えてみれば、思い出が詰まった10年分の荷物は小さなトランク2つ分しかなかった。
部屋に残されたのは、本や絵画、貴金属、世界中から集められた高価な品物ばかり。あの人が俺のために用意してくれた贈り物だ。
手に取れば、あの人と過ごした日々が昨日のことのように思い出せる。
何よりも大事な宝物だった。
……けれど今は――
あの人がここを去ってから、思い出に浸る日々を過ごしてきた。ここに残された贈り物だけが、あの人がここにいた証だった。だけど今はそれが胸を締め付ける。
がらん、と広くなった部屋には、あの人の気配すら感じられなくなってしまった。
最後に触れ合った日から、何度も容赦なく夜が訪れ、ひとりぼっちの朝を迎えた。朝目覚めて、あの人の姿を探して、温もりを求めて、また夜を迎えては祈るように眠りにつく。
――それも今日で終わりだ。
あの人と……ライさんと出会って、十年目の冬。
俺は、ここを出ていくことを決めた。
……そう、出会ったのも今日みたいな冬の夜だった。あの夜の凍えるほどの寒さと静寂は、今でも鮮明に覚えている。
月も星も見えない漆黒の夜。
あの日の出会いが、すべてを変えてしまった。
最初のコメントを投稿しよう!