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英会話スクール
五反田に社屋を構えるオフィス家具メーカー「T&M」社員の川辺美里は、社の更衣室で、まさに、さぼってしまおうか…とした考えが頭をよぎった瞬間
「川辺さん、今日、英会話教室ですよね」
と、志田千鶴に突っ込まれギクッとした。
総務課の美里と営業の志田が社内でタッグを組んで仕事をする事自体、皆無なのだが、更衣室でちょくちょく顔を合わせている内に先輩、後輩の垣根を越えて親しくなった。
志田は、小悪魔風の顔立ちを武器に恋愛に走る訳でもなく、自分の三歩後ろを子犬のようについてくる男が好きという変わり者だが、上司から理不尽な要求を受けている新入社員から相談を受ければ、クビ覚悟で直談判を遂行するという義侠心あふれる人物でもあった。
「もう、レッスンについていくのが大変でさ。志田ちゃんに言われる前に、さぼっちゃおうかなーなんて、つい邪な考えが浮かんできてたんだよね」
「だめですよ。ペラペラになってワイキキビーチを闊歩するっていう初期の計画が絵に描いた餅になってしまうじゃないですか」
「ふふ、そうだった、そうだった。ペラペラなんて程遠いのが現実だけど、月謝払ってる以上、何とか成果をあげなきゃね、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
会社の最寄り駅から、電車で大崎に向かう。
改札から、駅ビルを抜けて通りに出れば英会話スクール「リバティ」の入っているビルに行き着く。
スクールは、雑居ビルのワンフロアを仕切った造りになっていて、その分、個室内部は手狭な感じを受けるが、三、四人で使う分には何とか事足りるのだった。
出席は、受付のパソコンにカードを通す事で入力されるので、それが終われば割り当てられた教室に向かい、講師が来るのを待つ。
教室に入ると、入校時期が同じで度々一緒になる柴崎澄香が席についていた。
「聞いて、美里さん。
さっき偶然小耳に挟んだんだけど、ケビンが今月いっぱいで終わりになるらしいよ」
「えっ、初耳」
「もう、ショックもいいとこ。
アシュトン カッチャーうり二つで俄然やる気もわいてきた所だったのに」
2年前、時を同じくしてスクールに入校した柴崎澄香とは、情報交換をする上で、又、互いに助け合う存在として友情が成り立っていた。
大手ゼネコンに勤務する柴崎の趣味は旅行で、共に行く仲間の流暢な英語を聞いている内に「このままでは、いけない」と触発されたのだと言う。
一通り世界の主要国を渡り歩いた柴崎であっても、やはり、ハワイには絶大の憧れを示す。
彼の地が、ジャンボジェット機が就航された年から50年、不動の人気を得ているのは紛れもない事実ではあるが、柴崎に言わせれば、今、ハワイは単なるお金を使う場所から、スピリチュアルスポットが至る所にある神秘の地域としても脚光を浴びているのだと言う。
始まりの放送が教室内に流れると
講師が「ハロー」の挨拶と共に入ってくる。
20代半ばの講師、ジョンは、英国人らしく決して境界線を越えてこない行儀の良さを滲ませながら、皆に
「先週末、あなたは何をして過ごしたか?」
の質問をする。
そこで誰かが墓参りに行ったと答えれば、彼は引き続き話をふくらませるため、そこへ、誰とどのような経路で行ったのか?あるいは行った先でハプニングは起こらなかったか?などを、聞き出す。
先週末の過ごし方については、友人と横浜中華街で食事をした、お台場にイベントを見に行ったなど、それなりの内容が殆どではあるが、まれに
「金欠だったので、家でゴロゴロしていた」など、見も蓋もない事実を述べる者もいる。
生徒が、御殿場アウトレットに行き、買い物しまくったという話をすれば、
そこでどれ位の金を使ったのかと聞くのは、大抵、英国人だ。
これは、一見、豊かに見えるこの国の一般ピープルが生活のどの部分に価値をおいているのか知りたいと言う事なのだろう。
対してアメリカ人は、他人の懐具合なんてどうでもいいとばかりに、興味を示さない。
美里はスクールに通い始めてから、色々なタイプの生徒がいる事に気づいた。
茶髪で、一見ギャル風の女が、ノートにびっしりと書き込みをし、着実にスキルを上げているかと思えば「会社から行けと言われ、仕方なく来ている」とした渋々組もいる。
終わりを知らせるチャイムが鳴ると、
皆、こんなはずじゃなかったのに
とした消化不良を抱えているような表情で教室から出ていく。
美里の住まいは、品川の片隅にあり、駅から20分以上かかるという事で都内にしては格安の中古物件だった。そうした背景もあり、美里は母の遺産を頭金にし、清水の舞台から飛び降りる思いで、そのマンションを購入した。
駅から遠い分、都会の喧騒からは距離をおける。
田舎道に比べると、街中は、始終、様相が変わり、歩いていても退屈しない。
実際、帰途につく途中、差し掛かる商店街には色々な店が軒を連ねる。
中でも、目を引くのはカイロプラクティックの診療所だ。増え方が尋常ではない。
これは単に「高齢者が通う」と言う事だけではなく、若年層においてもストレス性の諸症状に悩まされている人々が増えているという事なのだろう。
寄る年波に勝てない外壁を敢えて見ないようにして、マンション内に入る。
エレベーターで所定階まで行き、部屋の前でバッグからキーを探し出す。
開けて玄関に足を踏み入れても、何か特有な匂いがするわけではないが、取り敢えず、ペットのインコの様子を見に室内へと足を運ぶ。
「うん、止まり木にいる。大丈夫ね」
大学時代の友人から、3ヶ月限定で預かったインコの「ルミ」は、2年経った現在も、美里の家にいる。
「薫、今、どうしているのかな…」とした思いがよぎるも、「ルミ」の餌代が毎年、送金されてきている事もあり、結局、一人暮らしの寂しさを紛らわす存在としてはそう悪くもないかとの考えに落ち着いている。
ルミの飼い主、薫は異性関係が派手で、誰かと別れても、すぐに次の男が出現するという慌ただしさの中、生きている女だった。
そして、外見が美しいだけでなく、男達が興味をひく話も自由に繰り出せた為、より一層その存在価値が高められていった。
共通の友人から「あなたも薫のように生きてみたら?」と嫌味を言われる事もあった。
だが、外見を似せた所で薫になれる訳でもなく、男がいないと生きていけないという性分でもなかった為、半ば違う星の生き物を観察するような境地で薫と付き合っていた。
あり合わせの食材で作った夕食を取ったあと、ふと、広い浴槽につかりたくなり、近場の銭湯に向かう。
ラドンの湯、電気風呂、ジェット水流風呂、サウナ室と多くを取りそろえた
銭湯は今日もなじみ客で賑わいを見せていた。
年季の入った個人ロッカーは、お世辞にも綺麗とは言えないが、昔のように番台で目を光らせるおばあさんもいない為、ほこりなどをチェックしたのち、仕方なく服を保管する。
浴室に通じる戸を開けて、空いているカランを探し、湯道具で場所をキープした後は、身体を洗い、備え付けのシャワーで泡を流す。
- これで、禊はオッケー! -
先客がいる湯船に、おずおずと身を沈めると、熱い湯で身体にはびこった疲れがはがされていく感覚がし、じわじわと身体も順に温められていった。
「ねぇ。今、出てった人見た?髪の毛、どっぷり湯船に、浸かってたわよ」
「やぁねぇ。自宅の風呂じゃないんだから。
汚いったらありゃしない」
年配の二人が、マナー違反の若い女に向かって文句を言っている。
一昔前であれば、注意する側とそれを素直に聞き入れる側との心あたたまる構図が見られたものだが、今となってはそこまで踏み込んでやってくれる人はいない。
美里は、スタンダードな湯に数回浸かった後、キリのいい所で浴槽から出た。
脱衣所では、まだ数人がベンチで世間話に花を咲かせている最中だったが、輪に加わったら最後、抜けられない恐れもあると考え、さっさと身支度を整えて銭湯を出る。
家に着くと、インコの「ルミ」のケージ内を掃除し、水を新しい物に変えてやる。
「じゃぁ、ルミちゃん。もう寝るね」
そのつぶらな瞳には何の意思表示も表れていないが、何か世話をする対象があるというのは、精神安定上、多大にプラスになる事を知った。
そして今日も通常通り、キッチンでシングルモルトの洋酒を少々引っ掛け、眠りにつく。
七月の梅雨前線さなか、少しでも気分を上げようと柔らかいパステルカラーのニットで家を出る。
会社に着き、更衣室で制服に着替えた後、部署に向かう。
所属している総務は、業績を上げなくては始まらない営業とは違い、比較的楽な部署と思われがちであるが、他の部署で関わっている案件がコンプライス違反に抵触していないかなどをチェックする所でもあり、会社がクリーンであり続ける為にも、必要不可欠な部署と言えた。
昼までは、パソコンに溜まっているメールの確認作業をやり、続いて官公庁との渉外の調整を行う。
退社後、以前通っていた着付け教室の講師から連絡が入る。
講師は、真面目に通い詰めたのを評価してくれたのか、時々、誘いをかけてきてくれた。
着付け講師の河野は、悠々自適で、特に稼ぐ必要もないように映ったが、本人の「若い人達の着物離れを食い止めたい」とした思いから、現在も続けているようだった。
着付けは河野の瀟洒な自宅の一室を使って行われ、美里は、盛夏の中、講師と二人、汗だくになりながら着付けをやっていた事をついこないだの出来事のように思い出した。
着付けを習いたいと思ったのは、何かの折に目にした祖母の着物の着こなしに憧れを抱いたからだった。
鮮やかな柄の着物に西陣織の帯を締めるとした王道の装いも素敵だが、祖母の和服の着こなしは時代劇などで目にする町人を思わせる、ふだん着使いのものだった。
そうしたこなれた着こなしは、一朝一夕で備わる訳ではなく、日々の暮らしの中で徐々に身につくものと知り、美里自身も、日本古来の由緒正しき文化を廃れさせてはならないと痛感した。
マンションに着きエレベーターを待っていると、扉が開き、同じフロアの京子に出くわす。
「あらっ、美里さん」
「こんばんは。お出かけ?」
「えぇ、ちょっとそこまで」
「気を付けて」
同じマンションの住人であるシングルマザーの京子とは、彼女の子供が鍵の紛失で閉め出されていた時、自宅に入れてあげた縁で親しくなった。
法律事務所で事務員として働く京子は、司法試験合格に向けての勉強中の身であるが、家事や子供の世話に時間を取られ試験勉強に時間を割けないのが悩みだと言う。
京子が司法試験を受けようと思ったのは、自身の離婚の際、調停で世話になった女性弁護士の存在が影響しているらしく、彼女の「男などに負けてたまるか」という勇ましさに感銘を受けたのだと言う。
翌日の退社後、自宅付近の商店街を一人行く途中、何気なく美里は、通りを行き交う人々に注意を払う。
カタカタと音を鳴らし中心から逸れた隅の方を手押し車を押しながら歩くお年寄りがいるかと思えば、自転車に乗り携帯に目が釘付けになっている若者もおり、ありとあらゆる生活を営む者達が不思議なコントラストを描いていた。
マンションに戻ると、郵便受けに何枚かのチラシと共に、英会話スクールからの便りが入っているのに気付く。
個人レッスンの知らせのようだった。美里は、二年前、電車内の広告で、英会話スクール「リバティ」の存在を知り、門を叩いた事を思い出していた。
「今、入られますと、丁度、ご希望の曜日でレッスンを受けられます」
というスタッフの言葉に促されるようにして、その場で手続きに入った。入会当初、良くレッスンで一緒になった男性は、会社の要請で仕方なく通っているのだと言い、間もなく姿を見せなくなった。
皆、スクールに入りさえすれば、後は、先生が何とかしてくれると勘違いしてしまう。
しかし、実際は自分に合った独自の勉強法を見つけ、それをコツコツとやっていくしかない。
途中、買った惣菜で夕食を済ませ、明日の英会話レッスンに何を着ていくか考える。リバティでは、講師達は正装とは言わないまでもネクタイにジャケットが義務付けられており、生徒側としてもそこら辺に買い物に行くような格好ではまずいと思うからだ。
「これでいいや。誰か注目しているわけじゃなし」
洋服が決まった途端、安心感と共に、睡魔が押し寄せ、美里はそれに打ち勝つように風呂の準備に入った。
その日も退社後、英会話スクールに向かう。
教室には既に柴崎澄香と伊藤沙織の姿が認められ、なぜか、対抗心が沸々と湧き上がる。
三人でたわいない会話をしている途中、ノックの音がし講師が姿を現す。
彼の噂話をしていた訳でもないのに、三人は突然口をつぐみ、そこはかとなく
いたたまれない空気が広がっていく。
レッスンが始まると、三人は講師の厳しい要求にほぼ答えられない状態でありながら「誰か突破口をあけてくれ」とした他力本願の気持ちで縮こまっていた。ふと、隣にいる伊藤沙織のノートを見ると、走り書きではあるが、講師の示した重要事項をノートに書き留めている。
- そういえば -
彼女は以前、講師から”先週末、あなたは何をしましたか?”と聞かれた時
「そうそう、私、結婚しました」と、まるで
”コンビニに卵を買いに行った”と同じニュアンスで答えたんだっけ。
- あれにはびっくりだったよね -
「我が道を行く」タイプの沙織と、気配り上手な澄香の胸を借りるような形のレッスンも終業のチャイムと共に終わり、美里は、スクールの入ったビルの前で二人と別れる。
翌朝、いつも立ち寄る会社近くのコンビニで、後輩の志田千鶴に出くわす。
互いに買い物を終え、社屋へと向かう途中、志田から「秋に予定されている社員旅行の行き先が決定した」との情報を得る。
今時、社員旅行などを開催しても、誰が喜ぶのかという感じもする。しかし会社側にとっては節税にもなるらしく美里は”まっ。仕方ないか?”という気持ちで歩を進めた。
退社後、リバティに向かう。
教室に入ると既に三名の生徒がおり、テキストを開いて講師を待っていた。
数分後、現れた人物は他校からのピンチヒッターと言う、母国がどこか限定出来ないエキゾチックな顔立ちをした講師だった。
冒頭、自分がいかにファインディングニモのファンであるかを語った彼は、生徒が話にのってこないのを知ると、早々と方向転換をはかり、本来のレッスンの方に舵を切る。
生徒達も、ひとたび、ここに集えば、一部上場企業の部長であろうが、大学病院勤務のナースであろうが、その立場が考慮される事はなくミスはミスとして容赦なく指摘される。
新米講師達も、いざ、日本に赴任する事が決まった時、それぞれ、胸に抱いた理想があったはず。しかし実際来てみると、自身の想像と現実が全く違うことに気づき愕然とするのではないだろうか?
ニモファンの講師は、終始一貫、陽気なアメリカンというイメージのまま、授業を行い、あっという間に終了となった。
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