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第1章 青木ケ原
富士山北西麓に広がる一面の緑。
ここは、青木ケ原の樹海。
自殺の名所として有名であるが、一方で豊富な動植物の生息地としても有名である。
植物で言えば、ウラジロモミ、ツガ、ヒノキ、アセビ等が多数繁茂し、動物、特に野鳥が多数生息している。オナガ、ツグミ、ヒヨドリなどは特に数が多い種である。
それが、最近鳥がいなくなった。
鳥の鳴き声が森の神聖さを際立たせ、また人間の心の寂寥を増幅させるかはわからなかったが、
静まりかえった森の黒さは、今まで抑圧されていた力をはね返すように、恐怖を倍増させて止まなかった。
そんなことを考えながら、俺は進んだ。
特に思いつめて、この地に踏み込んだわけでもなかったが、ここでなら何か次の一歩が見つかると、瞬間の気まぐれから、ひとり木々に覆われた世界へ踏み込んでいた。
俺の行く手が閉ざされたのならば、それはそれで甘受しようと思った。
でも、ここで何かを見い出せたとしたら、
光に包まれた、あの華やかな世界に再び舞い戻っても、それはそれでやって行けるだろうと思った。
既に遊歩道からかなり外れていることは自覚していた。
もしかしたら、道に迷ったのかもしれない。
もしかしたら、もう戻れないかもしれない。
そう思うと、いままで大地をしっかり踏み締めていた足が、急にか細い二本の棒切れに見えた。
しかし、その棒は俺の意思から解き放たれて、前へ前へと進んでいた。
これが、青木ケ原の樹海なんだ。
そう思った時にはもう遅かった。
戻ろうと思っても、足はひとりでに先へと進んで行ってしまう。
後ろを振り返ろうとしても、最早どちらが前で、どちらが後ろかがわからなくなっていた。
とにかく止まろう。
ひとまず止まろう。
俺はそう考えた。
大声を出す気力はなかった。
だから、心の中で叫んだ。
「止まれ!」
でも、止まることが怖かった。
止まったらそれで終りのような気もした。
もし止まったら、暗闇の中から何かが出て来て、
そしてそこで全てが終りになる気がした。
その時、俺は突然何物かに後ろから肩をつかまれた。
その瞬間前に駆け出していた。
駆け出したが、前に横たわっていた大きな枝に足を取られた。否応なしにそこで横転し、大地に投げ出された。
手のひらに痛みを感じたが、暗闇でよく見えなかった。足を確認したが、怪我はしていないようだった。後ろを振り返り、誰かが追ってきやしないか目を凝らした。でも、ただ暗闇が広がっているだけだった。
それから視線を今つまづいた枝に移した。
しかし、それは枝ではなかった。
それは、衣服を着た何かだった。
衣服を着ていればそれは人間のはずだった。
視線をそこから離したかった。
けれども、何かがそれを確認させたがっていた。
俺はその一点を仕方なく凝視していた。
死んでいるのか?
自殺者か?
俺はその言葉だけを頭の中で連呼していた。
「みどり・・。」
え?
しゃべった。
横たわっていた何かがいま、確かにしゃべった。
それは、男のようだった。
「みどり・・が・。」
俺にはその男の声がはっきり聞こえた。
「みどりが?」
俺が駆け寄るとその男はもう息絶えていた。
既に死んでいたのだろうか?
いやそんなことはない。
確かにこの男の言葉を聞いた。
「みどりが・・・。」
確かにそう聞こえた。
俺は再びあの光に包まれた世界に舞い戻る理由を見つけたと思った。
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