みどり(影山飛鳥シリーズ01)

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第9章 なりすまし事件 その日、川崎大輝は自分が所属する住民課のパソコンを立ち上げる当番だった。 始業は8時半からだが、その前にパソコンを立ち上げておかないと、始業開始と同時に申請をされた場合、しばらく住民票を出力することが出来ない。それで、毎日当番を決めて、30分早く登庁し、パソコンやプリンタを始業開始までに立ち上げておくのである。 ところが、その日に限って、始業の30分も前に、窓口に一人の女性が駆け寄った。 「ねえ。住民票欲しいんだけど。」 パソコンの立ち上げは川崎一人で行っていた。 まだパソコンとプリンタのスイッチを入れたばかりで、しばらく時間が掛る。 「すみません。8時半からなんですが。」 「わかってるけど、急いでるの。」 たまに、こういうせっかちな客が来ることがある。しかし、そう急がれても、パソコンの立ち上げが完了し、住民課の端末がそのホストと完全にリンクしないと、住民票を出力することは出来なかった。 「お出ししたいのは、やまやまなのですが、ホストコンピュータが、8時半にならないと動かないので。」 「なによ。」 その女はそう言い捨てると、待合室の椅子にガタンと座りこんだ。 8時半が近づいて、職員が次々と登庁して来た。 その中で課長が待合室の椅子に座っている女を、何気なく川崎に尋ねた。 「いつから待ってるの?」 「僕とほぼ同時でした。」 「30分も前からか。ご苦労だね。」 「はい。」 8時半になり、朝礼が始まったが、一人川崎は先ほどの女に呼ばれた。 「早くしてね。」 川崎は朝礼ぐらい待てないのかと思いながらも、 退屈な朝礼にも関心がないので、寧ろ窓口をやっている方がいいのかもしれないと思った。 「すみません。」 席に戻りかけたその女を川崎は呼び止めた。 川崎が窓口対応を始めたので、 後から来た市民も次々に申請書を窓口に提示した。朝礼中だったにもかかわらず、職員がそれを離脱して窓口に駆け寄った。 職員が一人、二人と窓口に離れて行くにも関わらず、課長はマイペースで先週末に部長から指示があったことを話していた。 「なあに?」 「あ、ご本人を確認するものをお願いします。」 「私が私の住民票を取るんだよ。」 「はい。お願いします。」 「お願いしますって・・なんで? 疑ってるの?」 「そういうことではないのですが、決まりでして。」 「もう。」 女は名刺を出した。そこには申請者と同じ名前が書かれていた。 「これでいいでしょ?」 「いえ、免許証とかお持ちでないですか?」 「ないよ。私、運転しないし。」 「それでは健康保険証とか・・。」 「無いよ。」 「では何か公的な機関の発行したものとかは。」 「ないよ。だから名刺を出したじゃない。」 「いえ。こういうものはちょっと・・。」 「ちょっとなあに?」 「ですから、こういうものでは・・。」 「やっぱ疑ってるんじゃない。」 そこでその女のトーンが急に高くなった。 その女の声で、奥の席に座っていた課長が老眼鏡を下にずらし、窓口の方に視線を送った。 また、窓口に対応していた職員も一斉に川崎とその女の方を向いた。更には、窓口に並んでいた市民も、彼らの方に冷ややかな視線を送り始めていた。 「疑ってはいませんが、規則で例えご本人様でも、 ご本人であるという証明証を確認させて頂いています。」 「だから、私は私でしょ? それに身分証明なんて持ってないよ。」 「でしたら、この場では交付することは出来ません。」 「急いでるんだけど。」 そこに課長がやって来た。 「どうしたんだね。」 「あ・・。課長。この方が身分を証明するものを お持ちになられていないということで。」 「あんた課長さん。私この人に疑われてるんだけど。」 「いえ、決して疑ってるわけではないのですが、 規則で決まっておりまして。」 「でも私は私だし、それに免許証だとか持ってないよ。」 「こういう場合、川崎君、どうするんだね。」 「私、今日すぐに必要なんだけど。」 するとそこに市議会でやたら嫌みな質問をする 本間市議会議員が通りかかった。 彼は何でも首を突っ込みたがるタイプで、特に市民の苦情には敏感である。無理難題でも安請け合いをして、そのしわ寄せを職員に被らせる。 そうやって自分は市に口をきいてやったぞと、 市民の味方だぞと、選挙のための点数稼ぎをするのである。 この日も両者の言い分をろくに聴きもせず、 未だ奥の席に座っている部長をにらみつける感じで、この輪に入って来て、それで課長に上からの言い回しで指示を出した。 「佐藤課長、出してあげなさい。」 「え?・・。いえ、これは規則で決まってまして。」 「どんな規則だね。」 「本人確認をしないと出せません。」 「それは免許証だけしかダメなのかね?」 「いえ、他にも有効な証明はありますが。」 女が何かカバンの中の財布を探って、 そしてクレジットカードを出して来た。 「あ、ありがとうございます。 ほら、中野緑さんっていうクレジットカードじゃだめなのかね?」 川崎が課長とにらめっこをしている。 「クレジットカードの場合ですと、それだけではお出しできません。」 「じゃあ後何があればいいのだね?」 「通帳とか、社員証とか。」 課長が窓口の横に据え付けられている本人確認の身分証明証の例示を見ている。 「通帳はお持ちですか?」 「まさか。持ち歩く人なんている?」 「社員証は?」 女は再び財布を探ると、その中から厚めの紙に写真の貼られた社員証を取り出して来た。 「はい。どう?」 確かに規則にあるクレジットカードと、社員証が目の前に揃った。 しかし、クレジットカードといっても、 見たことも聞いたこともない会社のものだったし、これだと自分でもいくらでも作れそうな代物だった。 そして、社員証はこれこそ手作りというレベルのもので、顔がハレーションを起こしていてよく見えない写真が貼ってあり、確かに本人だと言えばそう見えるのだが、これも聞いたことがない会社のものであった。 「課長・・。ちょっとこれでは?」 「その規則だと、この二つでいいんでしょ?」 「佐藤君、どうなんだい?」 その場にいた全員の視線が課長に注がれた。 「わかりました。お出ししましょう。」 「課長・・。ちょっと。」 「川崎君、この二つの身分証明を出してもらえば、 規則上はいいんだよね。」 「まあそうですが。しかし・・。」 「なら出しなさい。」 「はい・・。」 「おうおう。」 いきなり本間議員が大きな声を出した。 「中野さん、そう言えばあなたを知ってますよ。」 「え?そうですか?」 「ええ。いつぞや、選挙事務所の方に来られて・・。」 「あ、はい。先生覚えて頂けてたんですね。」 「あの中野さんでしたか。」 しかし、この時の判断が間違っていたことは、 その翌日に本人がこの窓口を訪れたことから、もろくも崩れた。 本間議員の話も単なる選挙の点数稼ぎだろう。 川崎はそこまで話すと満足したように、帰ると言い出した。
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