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長い廊下を歩き、炊事場の横を通り過ぎたところで話し声が聞こえた。
「旦那様、わざわざ伏見の蔵元から大吟醸を取り寄せたみたいよ」
「夕餉には鯛の刺身を出せですって。あからさま過ぎて笑っちゃうわ」
「嫁入り先もさすがにびっくりするんじゃない? まぁ、早く出て行って欲しい気持ちは分かるけどさぁ」
喜多治の屋敷で給仕を務める女性たちの声だった。名前が出ずとも自分の悪口を言われていることに一葉は気付いた。そのまま通り過ぎようかと思ったが一葉は口元がむずむずして思わず、
「いいなー! 私も鯛のお刺身食べたかったなー!」
と、大きな声で叫んだ。ガタガタガタッと激しい物音が炊事場の中から響く。前を歩いていた使用人が振り返り、鬼のような形相で一葉を睨んだ。
「ごめんなさい。私、独り言が大きくって……」
両手で口元を覆い謝罪の言葉を口にした。しかし言葉とは裏腹に大して悪びれる様子もなく、一葉は使用人を追い抜かしズンズンと歩いて行った。
これまでこの家で受けた数々の仕打ちを思い出し、思わず嫌味が出てしまった。刺身などこの家にいた三年間、一度も口にしたことなどない。嫌味というには小さすぎて自分でも笑ってしまうけれど、これ位許されるだろうと勝手に解釈した。
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