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Dessin.2
「お疲れ様、ありがとう」
机上のスマホが、小さなアラームで至福のひとときの終わりを告げる。ビクンと小さく肩を震わせたが、翼くんは僕が声をかけるまで姿勢を保っていた。
「見てもいいですか」
「ああ、もちろん」
タオルで指先を拭い、キャンバス周りを片付ける。彼は軽く肩や首を動かしてから、こちらに来て画面を覗く。
「……柔らかい」
「分かるかい?」
呟いた一言は、僕がイメージする彼の雰囲気を的確に拾っている。始めのうち彼は、今時の若者には珍しい慎み深さで僕に接していたが、何度か話すうちに、春の陽だまりに似た柔らかな表情が滲み出てきた。もっと注意深く眺めていると、初冬の朝を思わせる凛と澄んだ眼差しや、初夏の新緑に降り注ぐ日差しのように鮮やかな笑顔や、秋の落陽に通ずる物憂げな横顔を見つけた。そんな魅力をどうやって表現しよう。今はそれが楽しい課題だ。
「圭人さんの目には、俺がこんな風に映っているんですね」
彼の口から僕の名前が出る度に、項の辺りがムズムズする。出会った日、彼は「箕尾先生」と呼んだ。確かに僕は中学校で美術教師をしているが、彼の先生ではない。そう告げると、困ったようにしばらく眉間に薄い皺を刻んだのち、「圭人さん?」と上目遣いで問いかけてきた。咄嗟に首肯してしまって、以来名前で呼ばれている。
「そうだね。でも、最終形はきっと変わるよ」
「ふふっ。楽しみだけど、ちょっと怖いな」
「僕もだ。創作は前人未到の冒険の旅に似ている」
「冒険……そうかも」
はにかんだ微笑みがスッと消え、翼くんは物思いに耽るように呟いた。
「さてと。油を落としてくる。リビングで待っていてくれるかい。食べたいもの、考えておいてくれ」
「はい」
バスルームで軽くシャワーを浴びて、油彩特有の匂いを流す。毎回、絵を描いた後は、彼と夕食を共にしている。彼は全寮制の高校に通っていて、ここへは外出許可を取ってきてくれている。門限までに帰しているけれど、彼との時間が少しでも長く欲しい。夕食は、僕の下心を満たすための口実なんだ。
「圭人さん、今度、俺が夕食作ってもいいですか」
「えっ?」
「いつもご馳走になってばっかで……あの、パスタくらいしか作れないんですけど」
この日は、郊外のファミレスでハンバーグを食べた。美味い洋食屋のストックくらいあるのだが、彼は恐らく遠慮して安い店を指定しているんだと思う。彼からの手料理の申し出によって、その推測が確信に変わった。
「ありがとう。じゃあ、次回はお願いするよ。材料、揃えておくから、前日までにRINEして」
「はい、分かりました」
「凄いなぁ、料理できるんだね」
「簡単なものばっかですよ。中学まで1人暮らしみたいなものだったから」
しまった。これは地雷だったか。
寂しげな微笑みに、胸がギュッと締め付けられる。
「あ、甘いもの……デザートも食べなさい。まだ時間あるだろう?」
「じゃあ、ダブルプリンいいですか」
「もちろん」
僕はすぐに呼出ボタンを押して、店員に追加注文した。
「ありがとう、圭人さん」
ニコッと笑った顔に胸の奥がうるさい。軽く頷くと、空いたコーヒーカップを手にドリンクバーに向かった。……僕の心は、どこまで見透かされているんだろう。
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