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Dessin.1
「それじゃ……始めようか」
「はい」
脱いだコートをハンガーに掛けると、青年は慣れた様子で正面のチェアに腰かけた。いつもと同じ深いレンガ色のVネックセーターの下に、淡いクリーム色の開襟シャツ。左下に視線を落とすように、やや俯き加減に顔を傾けると、襟元から伸びる首に美しい筋がスッと浮かんだ。
「少し、前髪が伸びたかい?」
キャメルブラウンの毛先がサラリと右頰にかかる。キャンバス上の記録との違いを指摘すると、彼は伏せた瞳を見開いた。
「ごっ、ごめんなさい。切ってきた方が良かったですよね」
「大丈夫。でも、このまま伸ばすつもりなら……」
「いえっ! 次回までには切ってきます」
「ははは、なら良かった。じゃあ、始めるよ。お願いします」
17の男の子にしては珍しい、日焼けしていない白い肌が薄く色づいたが、それには触れず筆を動かす。下書きは前回で終わり、今回から地色を塗っていく。油彩画特有の絵の具と油の匂いに気持ちが引き締まる。僕には心地良い香りだが、彼の為を思い、換気扇を回している。羽虫のような微かな機械音と、キャンバスを走る筆の音だけがおよそ八畳の洋間を埋め続けた。
「モデル……ですか? 俺を?」
半年前――5月の第3日曜日。母校の角張中学校の廃校に伴って、校内の備品の譲渡会が開かれた。
僕は、譲渡品のリストに亡き叔父が寄贈した肖像画を見つけると、居ても立ってもいられず車を飛ばしてやって来た。その肖像画は、叔父の箕尾伯人が教え子の姿を描いたもので、画壇で名誉ある心星賞に輝いた1枚だった。僕がこの絵を求めたのは、価値ある受賞作だからではない。身内の作品だから……というのも表向きの理由で、本当のところはこの絵に魅了されたからだ。かつて、まだ10代半ばの頃、僕はこの絵に描かれている美少年、柳井昴に心を奪われ――未だその面影を忘れられずにいるのだ。
「ええ。それが、あなたにこの絵を譲る条件です」
譲渡会の会場で、僕より一歩遅れてやって来た青年もまた、この絵を所望していた。
『その絵、亡くなった父がいつも話してくれた箕尾先生の作品なんです。あなたが先で、権利があるのは分かっていますが……どうか譲ってもらえませんか。お願いします!』
モデルの少年の相貌を生き写しにした青年――柳井翼は、必死の様子で頭を下げた。
だから、僕は交換条件を提示した。彼をモデルに描くことで、この先何度も会うことができる。それどころか、たっぷりと見詰めることができる。
そんな邪な想いに気づかずに、翼くんは無垢な瞳を細めてはにかんだ。
『分かりました。よろしくお願いします』
まだ高校生の彼は、この秋から2週間に一度のペースで、週末になると僕の部屋を訪ねてくれる。こうして僕は、1回2時間の至福の時間をほんの少しの罪悪感と共に堪能しているのだった。
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