観察

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観察

 モデルなんて言うから、ただボーッと椅子に座っているだけかと思っていた。 「そうだな……そこに立って、こちらを振り向いて。いや、もう少し自然な感じで」  勧誘された2日後、僕は美術室のドアを開けた。窓の近くに、1つ置いた椅子。その傍らで、先生の指示通りに身体を捻る。 「うん。そうだ、そのまま動かないで」 「箕尾先生……2時間、このままですか?」 「どうしても辛かったら、言ってくれ」  内心、溜息を吐いた。5分、10分……30分もすると、脇腹が捩れて引き攣ってきた。 「あと3周ー!」  細く開いた窓から、グラウンドの声が聞こえる。ランニングしているのは、陸上部だろうか。 「視線! 顔! 下げないで、真っ直ぐ!」  筆を持つと、箕尾先生は別人になった。普段は低い声で静かに話す神経質そうな人なのに、キャンバスの前では声に張りが出てワントーン高くなり、真剣な目付きは鋭く熱を帯び、荒々しい肉食獣を連想させた。  それを情熱というんだろうか。1つのことに、こんなに夢中になるなんて。僕は絵の被写体だけれど、このときから先生の観察者になった。僕を見る先生の目の動きを追う。筆を操る腕の、肩の、シャツの下の胸筋の動きさえ不思議と感じられる。それから……胸の鼓動。ドキドキしているのは、僕なんだろうか。 「……ここまでにしよう。柳井くん、お疲れ様」  落ち着いた低い声に、ハッとした。窓から差し込む光が傾き、空が山吹色に変わっている。 「こめんな、疲れただろう」 「あ……少し」  捻り続けた脇腹が凝っている。首も、多分他の関節も。 「そこに座って」  箕尾先生は、僕の傍らの椅子を示した。なんだか分からずに腰かけると、先生が近づいてきて僕の背後に立った。 「初めてだから、早めに切り上げようと思っていたのに。つい夢中になってしまった」 「あっ……うひゃっ?」 「はは、くすぐったいかい?」  大きな掌が僕の両肩を包む。ゆっくりと優しく上下に揉みほぐす。ムズムズして、変な声が出てしまった。 「明日は会議が入ってしまったから、また明後日来てくれるかい?」 「分かりました」  最初はくすぐったかったけれど、しばらくすると慣れてきた。血行が良くなったからなのか、先生の手の温もりが酷く心地良かった。
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