抱擁

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抱擁

「素晴らしい。君は……私のアドニスだ」  画家とモデルという関係が最後になった日、箕尾先生はいつものマッサージをしながら低い声で呟いた。僕の正面には、描き上がった作品がこちらに向けて立て掛けられている。教室の片隅から振り返る少年の姿は、僕に似て僕ではない。差し込む光の加減なのか、とても神々しくて天使のようにさえ見える。 「アドニス?」 「神々に愛された神話の美少年だ。ああ……なんて尊いんだろう。こうして触れているだけで、インスピレーションが泉の如く湧き出してくる」  肩の上の両手が震えている。  こんな……僕のような存在を、そんな風に想ってくれるなんて……。 「お願いだ。君は特別なんだ。また君を描かせてくれないだろうか」 「箕尾先生」  この時間は、僕に取っても特別だった。親戚一族の中で、腫れものに触るように……忌み子と避けられてきた僕に取って。 「箕尾先生、僕は……不義の子、穢れた子なんだそうです」 「柳井くん?」 「母が不貞を働いて、それで、髪も肌も目の色も、こんなに薄くなったんだって言われてきました」  訳も分からない幼い頃から、同居する祖父母を始め、親戚連中に疎まれてきた。母が他所の男と自死を選び、父が精神(こころ)を病んで……それでも本家の跡取りだという立場だけで、僕は一族に縛られている。 「こんな僕でも、先生には特別なんですか」  ずっと他人には隠してきた秘密。なのに、両肩から流れ込む温もりが、凍らせた扉を開いてしまう。僕は俯いたまま、膝を濡らした。言葉が止まらなかった。  スッ、と温もりが消える。目の前に影か落ちた気配を感じて瞳を上げると、床に跪いた箕尾先生が真っ直ぐに僕を見上げている。 「昴というのは、輝く星の集まりだ。凍てつく冬空を照らして、春を導く希望の道標なんだ。君の悲しみも寂しさも共に引き受けるから、どうか……これからも私を照らしてくれないか」 「引き受ける、って……」  突然、両手が伸びてきた。あっ、と気づいたときには、僕の身体は椅子を離れ、先生の腕の中に包まれていた。それで……あとは覚えていない。ただワンワンと、幼子みたいに声を上げて泣き付いていた。こんな風に誰かに抱き締められた記憶は、僕にはなかったから――。  それからも、僕は放課後を美術室で過ごした。やがて、隣の美術準備室で、僕が先生に抱き付いたり、先生から抱き締められたり、心地良い温もりを交わすようになった。こうした触れ合いは自然なことに思えた。  1年後、箕尾先生が描いた僕の立像は、「心星賞」という凄い名誉ある賞に輝いた。先生は、僕のお陰だと泣いたけれど、僕には先生の才能だと分かっていた。この人は、もっともっと輝ける。そのために、僕はいくらでもモデルになろう。僕達は、ずっと一緒に輝くんだ。
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