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初めて出会ったその日、カゲツに叱られた。今もはっきりと覚えている。
十の頃に母を亡くし、スユイを名で呼ぶものはいなくなった。
王である父親は現王妃ミアンに心を操られ、実の子スユイのことも顧みなくなった。その上スユイが廃嫡されるという噂が流れると人々はスユイとの関わりを避け始めた。信じられる大人は一人もいなかった。
カゲツと出会ったのは、寂しさを抱えながら過ごしていたある日のことだった。
「王子。あまり鍛錬をされていないようですね」
新任の剣術指南役は、スユイの太刀筋を一目見るなり渋い顔をした。
それがカゲツとの出会いだった。
初対面からカゲツは王子スユイの剣術を叱った。
「ああ、不躾なことを言ってすみません」
「いえ! そうなんです。僕、剣の練習なんて全然していなくて。でも、叱ってくれた人は初めてだから、びっくりしました」
自分には剣才もないしそれを補う努力だってしていない。
それなのに自分の太刀筋を見るなり誰もが賛辞を並べる。
本気で叱られたことなどなかった。
「まるで叱ってほしいような言い方ですね」
カゲツは歯を見せ笑った。
「そうかもしれません……僕は、誰かにちゃんと叱ってほしかったんです」
王子の剣術指南役とは教育係のような役割でもあり多くの時間を共にした。
そうして慣れ親しんできた頃、スユイは思い切って「王子じゃなくてスユイと呼んでほしい」と頼んだ。するとカゲツは少し戸惑ったあと、優しく笑って快諾してくれた。
離れている間に何かが変わってしまったのだろうか。それとも――
(きっと子供のワガママに付き合ってくれていたんだ)
複雑な立場の自分に望んで関わる者などいない。始めから自分ひとりが見ていた幻想だったのだ。
スユイは暗い表情のまま、おずおずと口を開いた。
「カゲツ……殿。長きにわたる遠地セイランでの公務、ご苦労でした……」
形式的にねぎらいを並べた後は言葉が続かなかった。
(伝えたかったのはこんなことじゃないのに)
昼下がりを告げる鐘の音が城下から届いてくる。鈍い音が静かな部屋に間延びする。
「ハハッ」
前触れなく響いた笑い声が沈黙を裂いた。
礼の所作を崩したカゲツがこらえ切れなくなったように勢いよく噴き出していた。
先程までの硬い表情は緩みきっている。
「お互い、堅苦しいのは慣れていないな?」
苦笑いしながらカゲツは首を横に振った。
同意を求められたスユイはカゲツの千変万化についていけず、大きな瞳を見開いていた。
「久しぶりだな。スユイ」
記憶の中と同じ優しい声で呼ばれた名。
それだけでスユイの胸のつかえは外れ、ひと足前へ踏み出す。
それから二歩、三歩と前のめりになりながら駆け寄って行った。
「カゲツ……っ」
ぶつかりそうになるほどの距離で踏み止まる。
スユイの背丈はまだカゲツの肩の高さだった。だが、昔のように大きくのけ反らなくてもカゲツの顔を捉えられた。
「おかえりなさい!」
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