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一定のリズムを刻む電子音が耳に入ってきたので、ゆっくりと瞼を上げた。ぼんやりとした視界の中に、白い球体が浮かんでいる。次第に目の焦点が合ってきた。そのおかげで、白い球体の正体は、天井の電球ということに気づいた。どうやら仰向けで寝ている状態らしい。
ここはどこだろう。一体、自分は何をしているのだろう。そう思って、野崎は上体を起こした。
辺りを見渡してみた。コンクリートで構成された部屋だった。六畳ほどで、あまり広さを感じない。向かって右には引き戸があり、左には二十インチくらいのモニターが置かれていた。モニターに映る数字と波形は、今も聞こえる電子音のリズムに合わせて変化している。さらに、それから延びる数本の管は、野崎の体に繋がっていた。つまり、目が覚めた原因は心電計だったのだ。
ただ、どうしてこんな状態で、こんな所にいるのか、まだ理解ができない。
野崎は目頭をつまんで唸った。それから数秒が経った時、「あっ」と声を上げた。自殺するためにビルから飛び降りたことを思い出したのだ。理由は単純、人生の価値を見いだせなくなったからだ。
彼は四十歳を迎えて中小企業の契約社員でいた。月給は手取りで十三万円。当然、独身だった。孤独の中、富も地位も名誉もない。そのため、このまま生きていても仕方がないと思い、自ら命を絶つことを決めたのだ。
それに際し、誰にも迷惑をかけぬよう、人里離れた無人ビルから身を投げた。しかし、状況から察するに失敗したようだ。
はぁ、と野崎はため息を漏らした。
その時だった。引き戸が開かれ、白衣を着た男が顔を覗かせた。六十後半くらいだろうか。白いひげをたくわえていた。
「おっ、目が覚めたか」男は近づいてきた。「気分はどうだ?」
「ああ……。大丈夫です」野崎は訝しげな目を向けた。「あの、あなたは?」
「私は山村。再生医学の研究医だ。この人気のない場所で粛々と研究を行っている」
「じゃあ、俺を助けたのは……」
「そう、私だよ。このビルの前で倒れていた君を、ここまで運んで治療したんだ。ちなみに、この部屋は地下にある」
まさか人がいたとは思わなかった。予期せぬ事態で延命されたことに野崎は項垂れた。
「そうですか。でも、俺は死にたくてビルから飛んだんです。どうせなら助けないでもらいたかったです」
「やはり、自殺が目的だったのだな。ただ、勘違いするな。私は君を助けたくて治療したわけではない。実験のために治療したのだ」
えっ、と野崎は声を漏らして顔を上げた。「どういうことですか?」
山村は一回咳払いをしてから続けた。「さっきも言ったが、私は再生医学の専門家だ。具体的な研究テーマは、プラナリア細胞の人体移植。君はプラナリアを知っているかい?」
「ええと……。たしか、体を切断されたりしても、元通りになる生き物ですよね」
「うむ、その通り。プラナリアは著しい再生能力を持つ。私は、その細胞を人の体に移植することで、高度な自然治癒力を持つ人間を生み出そうとしている。もし可能になれば、どんな外傷を受けても治療が必要なくなるということを意味する。すなわち、多くの人の命を救えることに繋がるわけだ」
「はあ……。それは、難しそうですね」
「そうでもない。すでに理論的に可能であることは明らかにしていて、あとは実験が成功すれば証明成立、という段階まで来ていた。とはいえ、研究倫理上、人体実験を行うことはできない。なので、この研究を完成させるためには、救命という名目で誰にも気づかれず実験を行う必要があった。そんな時、私の前に君が瀕死の状態で現れた。だから、君の体を使わせてもらったのだよ」
野崎は大きく目を見開いた。「そっ、それじゃあ。俺は……」
山村はゆっくり頷いた。「実験は成功し、君はプラナリアと同じ能力を得た。つい先ほどまで瀕死状態だった君が、今こうして私と話せていることが何よりの証拠だ」
「まさか……」野崎は体に視線を向けて触った。
どうやら山村の言ったことは本当らしい。ビルの十階から飛び降りたのにもかかわらず、一切傷がなく痛みを感じないからだ。まもなくして、体中で汗が滲んだ。
そこで野崎は恐る恐る尋ねた。「……じゃあ、俺は何をやっても死ねなくなったということですか?」
「基本的にはそうだ」
「ふざけるな! 何てことをしてくれたんですか。もう生きたくないと思っていたのに、こんな仕打ちはあんまりだ」口調に苛立ちが含まれていた。
山村は野崎に掌を向けた。「まあ、落ち着きなさい。この実験が成功したことは、君にとっても悪くないことなんだ」
「はっ?」野崎は首を傾げた。「どういう意味ですか?」
「私は君と取引をしたいんだ。もちろん、それはお互いにとってメリットしかない。どうだ、話を聞いてくれるかな?」
野崎は眉間に皺を寄せた。この怪しい人間の話を聞くべきか悩んだのだ。だが、望んではいないものの治療してもらった恩があるので、「わかりました」と返答した。
「ありがとう。単刀直入に言うと、これから君はマジシャンになるのだ」
「俺がマジシャン?」
「そうだ。その中でも、人体切断を主としたマジシャンだ。しかも、小細工無しで本当に切るんだ。プラナリアの能力を持つ君がやれば、すぐに体は再生される。そして、それを見た人はマジックだと思い込む。絶対にタネがばれることはない。そもそも、タネを明かしたところで誰も信じないと思うがね」
山村の言葉に野崎は唸った。「仮にマジシャンになったとして、それが俺にとってどういうメリットがあるんですか?」
「誰も見抜くことができない君のマジックに、世間は目を向けるだろう。そうしたら、君は至る所でマジックを披露することになる。つまり、それでお金儲けができるということだよ。どうせ君が自殺を図った理由は、お金がなかったからだろ?」
野崎はギクリとした。見透かされていたからだ。なので、「ええ」と歯切れ悪く返した。
「なら、君にとってこれ以上ない話だよ。もう一度人生をやり直せるのだから」
「そうですけど、もし俺がこの話を受け入れた場合、あなたにはどんなメリットがあるんですか?」
「君がマジックを披露すれば、それがデータとなるから、私の研究がさらに進歩する」
なるほど、と野崎は小声で言った。それからしばらくの時間、瞼を閉じて腕を組んだままでいた。やがて、山村に目を戻し、「いいですよ」と了承した。
「よし、取引成立だ」山村は手を差し伸べてきた。
彼はその手を掴んだ。
結局この日、野崎は何事もなかったようにビルをあとにした。帰宅中、青天の霹靂とはまさにこういうことだな、と思っていた。
以降、野崎はSNSを使ってマジックという名の再生現象を披露した。手足などを切断しているのに、元通りになるというパフォーマンスだった。
それは、瞬く間に世間で反響を呼び、彼は一躍有名人になった。おかげでメディアに出る機会が増え、格段に収入が増えた。
人前で見せることもあったが、誰もタネを明かすことはできなかった。そのため、野崎は「天才マジシャン」と呼ばれるようになった。
以前とは打って変わり、富と名声を得たのだ。人生を好転させてくれた山村に、彼は心の底から感謝した。
そうして四年が経ったある日、野崎は大きな劇場でマジックを披露することになった。まず初めに、爆薬で体を分離させて元に戻すという演順だった。
ステージに立った松山の体に、スタッフが爆薬を装着していく。時間が掛かりそうだったので、彼は会場に視線を配らせた。すべての席が埋まっていた。
さらに、視野を広げて天井や壁を見回した。その際、向かって右にある防音扉付近に目がとまった。そこに山村が立っていたのだ。お互いの瞳が線で結ばれることがわかった。
すると、山村の口元が動いた。何かを言ったようだ。野崎は聞き取れなかったが、動き方からこう言ったように想像した。
さようなら―。
その言葉に野崎は首を捻った。どういう意味か理解できなかったのだ。
少しの時間、言意について考えを巡らせていると、次のようなことが頭に浮かんできた。
プラナリアの能力は失われたのではないか、と。
いや、ありえない。野崎はその可能性をすぐさま否定した。過去に、力が失われると言われたことはなかったからだ。
しかし、脳裏に何か引っかかる気がした。そのため、さらに記憶を探った。ほどなくして、彼はハッとした。そういえば、力が失われないと言われたこともない―。
そこで野崎は、再び考え始めた。もし、能力が失われたとしたら、有効期限があったということだ。それにもかかわらず、なぜ山村は今まで黙っていたのだろう。
実は研究が未完成だったからか。それで研究を完成させるためには、データが必要だったから取引を持ちかけてきたのだろうか。そうである場合、自分は実験用のマウスだったということか。
野崎の脳内で邪な考えがより一層膨らんでいく。
仮に能力をなくした状態で、このままパフォーマンスを行ったら、体は木っ端微塵になり再生されなくなる。つまり、死ぬということだ。だから山村は、別れの言葉を吐露したのかもしれない。
そのように彼が思案している時、視線の先にいた山村が不敵な笑みを浮かべた。目には怪しい光が宿っていた。
野崎は、心臓が跳ね上がり全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。同時に、恐怖、絶望、さまざまな負の感情が胸の中で混ざり合った。
彼が狼狽しているうちにすべての準備が整った。
そして、次の瞬間だった。
前もってステージの端にいた司会進行役が合図をすると、会場内に爆音が鳴り響いた。
(完)
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