「ここに手を置いて」

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 やっとの思いでたどり着いた凛のアパート。鍵は開いていて、家の中に入るとゴミが散乱していた。部屋の奥で布団にくるまった凛がもぞもぞと姿を現した。あの輝くような笑顔はどこにもなくて、今にも消えてしまいそうな光のないぼんやりとした目がこちらを見ていた。 「迎えに来たよ。帰ろう。荷物はまとめてある?」 「ごめんなさい」  大丈夫だよと言ってスーツケースを取り出した。その中に適当に凛の持ち物を詰め込んでいく。足りないものは買えばいい。凛を車まで誘導させて、後部座席に乗せた。寝転がらせて、布団をかける。 「着くまで寝ていていいからね」 「ごめんなさい」  大丈夫だよと返すが、きっと届いていない。謝られるたびに心の中に、一つまた一つと医師が溜められていくようだった。  音楽もかけずに、無言のまま走り続ける。途中のサービスエリアで凛はトイレに行った。帰ってきてすぐに車を走らせた。凛は寝転がらず、布団で全身を覆うようにして車窓を眺めていた。 「私がね、担当していた患者さん、死んじゃった」  息を吐くような小さな声で凛はそう言った。今が吐き出すタイミングなのだと、僕は耳を澄ませた。一文字も、聞き漏らしたくなかった。 「看護師っていう仕事だから、そういう場面があることもわかっていたはずなの。それでも、毎日楽しそうに会話して、応援もしてくれていた人が苦しんでいる時間、私なにもできなかった。先輩たちは実習生だからなにもできなくて当然だって言ってくれたけど、違う。もっと私に知識があれば、一秒でも早く正しい行動ができていれば救えた命かもしれない。でも、それはあの時の患者さんだけに適応される話じゃないの。きっとこれから看護師として働いていく中で何度も同じ場面に立ち会っては、何度も同じ後悔をする。そう考えたらね、私には人の命を守るなんてそんな使命、背負えないって思っちゃった。私に、人の命は重すぎる。これがずっと続くなんて、耐えられないの」  胸に溜まっていたものを吐ききった凛は再び寝転がった。きっと、その言葉に返事なんて求めていなかったのだろう。それでも、黙ってなんていられなかった。 「そっか。でも、凛に救われた人もたくさんいると思うよ」  綺麗事かもしれない。凛が僕の言葉を受け付けなくても、僕は凛のこれまでの行動を否定したくなかった。努力してきた過程を誰よりも褒め称えたいのだ。  これからどうなっていくのかわからないまま、車を走らせる。看護学校だから長くも休めないだろう。だが、未来のことを考えるために今は休ませなければならない。
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