「ここに手を置いて」

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 それから、二週間ほど僕の家で休んだ凛は親の許可を取って、学校を中退した。迷惑をかけないからと言って、すぐにバイトを探したりもしていたがなかなか上手くいかず、沈んだ表情が続いていた。僕は僕で、なんとか笑ってもらおうと努力した。凛の好物を作ったり、プレゼントをあげたり、ドライブに出かけたり、スキンシップもかかさなかった。それでも、凛の頭の片隅には「死」が強く残っているのか、なにをしてもあの無邪気な笑顔を見せてくれることはなかった。  こんなこと認めたくないが、次第に僕も疲れてしまった。病んでしまった凛がいる家に帰ることに対して、気が重いと感じるようになってしまったのだ。あの頃の、天真爛漫という言葉が誰よりも似合う凛。子どものような無邪気な笑顔を見せる凛。好きだよとまっすぐな言葉で愛を伝えてくれた凛。  あの頃のあなたに会いたいと何度も願った。それが凛のプレッシャーになってしまっていることもわかっていた。  ある日、僕が仕事から帰ると凛は、顔に泣き跡を残したまま「おかえり」と出迎えてくれた。こんなことは初めてだったので、少しずつ調子が良くなってきているのだと思った。  だが、凛の思惑は全く別のところにあった。僕の手を掴んでベッドまで連れて行かれる。凛が寝転がって、僕が押し倒すような体勢になってしまった。誘われているのかと一瞬思ったが、凛の表情にそんな雰囲気はなかった。すべてを諦めたかのような希望のない笑顔で「お願い」と呟いた。なんのことかわからず、黙っていると凛は僕の手を触ってから自分の首に手を置いた。 「ここに手を置いて」  動かされるまま、右手を凛の首に添える。いつの間にか、片手で握りしめられるほどの細さになっていた。よく見ると、凛の手首も足も細くなっていた。こんな状態になるまで目を背けてきた自分に腹が立つ。 「こっちも」  左手も首に置く。 「お願い」 「本当にいいの」 「うん。好きな人の手で死にたいの」  その言葉の重さに耐えきれず、両手を首から離そうとすると凛がそれを止めた。 「今までごめんね。司も苦しかったよね。だからもういいよ」  少しずつ、力を入れていく。少しずつ、凛が笑顔になる。ほんの一瞬だけ見せたその笑顔から僕が惚れたあの天真爛漫な笑顔の欠片が垣間見えた。  だが、それは本当に一瞬で凛が苦しそうにし始めたところで僕は一気に力を入れた。ここから先はなるべく苦しませたくなかった。  そうして、命を火が消えたところで手を離した。疲れ切ったその顔にキスをする。僕にあの笑顔は不釣り合いだったのだ。他人の命で自分の心を病んでしまった凛と、その人の願いなら救いになるのならと簡単に命を絶えさせた僕とでは考え方も捉え方も違いすぎる。  それでも、きっとこれがお互いが幸せになるための方法だったのだと思う。もう魂のない身体に最後の愛の言葉を残して、僕は警察に電話した。
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