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四
休暇を取っている間に何か起きてないか不安な気持ちで会社に出たのだが、変わったことは起きていなかった。
終業のベルが鳴り終わった後、僕は社長室を訪れた。
「おー珍しい。なんか面白い話でもありましたか?」
いつも陽気で、話好きな社長は笑顔で僕を迎えた。社長と面と向かって話をするのは、久しぶりだ。以前の会社にいた頃から面識はあったが、深い付き合いはなかった。
仕事の話を少しした後、
「実は……」
と切り出した。
手紙の話、弁護士との相談結果を正直に話しする。
社長は、うんうんと聞いた後、
「そうですかぁ。それは大変だねぇ。女はおそろしい。あんたの気持ちがよくわかる。実はわしも昔、同じような事をやらかしてさぁ。そんときは、嫁にこっぴどく怒られてねぇ……」
と自分の武勇伝を延々と語り出したのだ。挙げ句の果てに
「男なんて、みんなそんなもんだべさ。特にあんたは単身赴任なんだし……」
と共感までしてくれた。
「もし女性から通報があったら、私の方に連絡して欲しいのですが……」
僕は頭を下げた。
「いやいやいや、わかりましたよ。まぁ、脅迫も度を超すようだったら、わしの方でも警察関係者を知っとるんで、話してみるべさね」
東京の大手会社と違い、地方の中小企業の社長にとって、浮気のスキャンダルなど気にするほどでもないようだ。自分自身でも痛い目にあっているせいなのか、ニヤニヤと笑って頑張ってねと励ましてもくれた。
神妙な顔でいられるより楽だったが、あまりにあっさりしていたので拍子抜けした気分になる。
残すところは、嫁に白状するだけだ。
アパートに帰ると勇気を出して電話をかけた。
「実は、問題が発生した」
「なに、問題って」
嫁の口調が変わった。
恐る恐る僕は今日までのことを話した。
話し終わるとずっと黙って聞いていた嫁が
「私は知らないわよ。女の事は、自分で解決して!」
と冷たく突き放したのである。
さっきまで話していた社長と大違いだ。
嫁の性格からしてそう来ると思っていたが……。
問題が大きくなった時、母親として子供たちになんと説明するのか、親戚にどう対応してゆくのか考えているのだろう。
厳しいものの言い方も仕方がないとあきらめる。
「うん、わかった。絶対迷惑かけないようにするから」
逃げるようにして僕は電話を切った。
次の日、内緒で貯めていた秘密預金を全額おろして五十万円を用意した。
弁護士の言う通り会社にも嫁にも報告し、金も用意した。
ここまで来ると気持ちが落ち着いた。そして闘志もわいてきた。
よし! いよいよ勝負だ!と自分に気合を入れる。
パソコンを開き彼女あてにメールを書いた。
「妻にも会社にも君のことは話した。そして、弁護士にも相談した。三百万は難しい。慰謝料の額は、弁護士を含めて示談か裁判で決まることになる。君の出方によっては警察に申し出ることもいとわない。以上を踏まえたうえで返信を請う」
メールを読み返し、勇気を振り絞り送信ボタンをクリックした。
もうどう転んでも構わなかった。
案外開き直ると気が楽になるもんだなぁと実感したのだった。
問題は解決してはいないが、なぜか心の中がすっきりとするのである。
運気が自分に向いてきたようにも思えた。
次の日、彼女からメールが届いた。
「裁判を起こしてまで、あなたとかかわりたくないの。これで終わりにする」
メールを見たとき、思わずこぶしを握り締めた。
何度も読み返し、脅迫という恐ろしい状況から完全に解放された気分を味わう。
ジワーッと心の中から暖かい安堵感がわいてきた。
すべてを告白し、周りの人に自分のだらしなさがばれてしまったけれど、とにかく終わった。
その日の夜、僕は久しぶりに熟睡することができたのだった。
翌日、社長に報告する。
「よかったねぇ。いい経験しましたなぁ。これからは道産子の女にゃ、気いつけんとなぁ」
相変わらずニタニタ笑っていた。
おとがめはなく、会社にはこのままいられそうだ。
嫁には問題なく片付いたと報告した。
「わかった」
と嫁は言ったきり電話を切ってしまった。
風が温かくなった三月の末、東京に帰る切符を自分で買って帰ることにした。
玄関の前に立つと、嫁がどんな態度に出るのだろう。考えるだけで恐ろしかった。
ただ、慰謝料も払わず、会社を辞めなくて済んだのだ。きっと機嫌をよくしてくれるに違いないと思っていた。
思いっきり息を吸い込む。
「ただいま!」
いつもより元気な声で家の中に入った。
「おかえりなさい」
嫁がじろりと僕の顔を見たが、何事もなかったかのように晩御飯の用意をする。
子供達も相変わらずだ。久しぶりに子供達と話をしながらご飯を食べた。風呂に入り、ビールを飲んでゆっくりくつろいだ。
やっぱり、我が家だ。
心が一番落ち着いた。
幸せも感じていた。
夜が深まり子供たちが寝た。
リビングで嫁と二人きりになる。
不自然な沈黙が二人の間に流れだす。
その沈黙に耐え切れず、
「俺、もう寝るから」
僕が寝室に行こうとしたときだ。
背後から声がかかった。
「償ってもらうから!」
嫁の低い声が聞こえてきたのであった。
(了)
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