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つぐない
一
平成十年の十二月、僕が四十五歳の年だった。バブルがはじけ、不良債権という言葉が巷にあふれ、銀行や証券会社が倒産していた頃だ。
仕事の終わった金曜の夜、珍しく上司が僕と二人で飲もうと誘ってきた。なにか不吉な予感がしたのだが、せっかく誘われたんだしと付き合ってみた。
案の定、予感は的中した。
「我社の経営が苦しい」
乾杯のすぐ後、上司が切り出した。会社の売上げの落ち込みを熱心に説明する上司の顔を見ながら僕は次にくる言葉を想像する。
「はぁ、そうですか」
曖昧な相槌を繰り返し、二杯目のビールジョッキーを飲み干した後だった。
「実は、君には申し訳ないが会社の人員整理に応じるか、札幌の子会社に出向するかのどちらかを考えてほしいんだよ」
覚悟はしていた。しかし、実際言われてみると腹が立つ。さっきの乾杯はいったい何の乾杯だったんだと思う。腕を組んだまま何も言わないでいると、
「時間がないんだ。来週の月曜日に返事が欲しい」
ときた。
人員整理については、以前に、職場集会で希望退職者を募ると話があった。四十歳以上の社員が該当する。僕は対象者ではあったが希望しなかった。
しかし、もし希望者が想定人数に満たなければ、労働意欲の芳しくない僕のような社員から退職を迫るアプローチが個別にあるだろうと推測はしていた。
頭の中でそう思ってはいたものの、実際辞めてくれと言われて即座に承諾するほど都合の良い社員に僕はなれない。
ましてや、このままこの上司とがぶがぶ飲む気になれるわけもない。
僕は早々に席を立ち家路についた。
五年前、バブル景気でマンションを買ったばっかり、ローンは山のように残っている。今、会社を辞めるわけにいかない。とにかく働き続けなければ家族全員が野垂れ死にだ。
嫁になんて説明しようか? 考えがまとまらないうちに家に着く。
嫁は、食卓テーブルで家計簿を付けていた。
「話があるんだ」
着替えもしないまま、いきなり話を始めた。
いつになく改まった僕の様子に、
「お姉ちゃんも健太も、テレビの音小さくして!」
嫁が子供達に声をかける。
「今日、上司に呼ばれてついに宣告された。会社の人員整理に応じるか、札幌の子会社に出向にするか迫られたよ」
「えっ! あなたに!」
嫁が眉根を寄せて僕を見つめる。嫁の声に子供達は振り向いた。
「人員整理に応じれば、退職金は増額するが会社は首だ。札幌に行けば、子会社だけど当面は働き続けられる。中小企業だけれど技術のある会社だからこの先倒産することはないと思う。そのかわり、東京には戻ってこられない」
「どうするの?」
「俺の技術力程度じゃ、ヘッドハンティングなんて縁がない。退職すれば、そのあとはハローワークで就職活動だ。どちらかと言えば、知っている札幌の会社に行く方が気楽でいいのかなと思う」
「ふぅ~ん…… 札幌」
小さく呟いたあと、嫁は黙り込んでしまった。
子供たちは僕たちの不穏な空気を感じてテレビを消し、自分たちの部屋に退散する。
食卓テーブルをはさんで二人の会話は途絶えてしまった。夫婦一心同体という言葉は結婚直後だけの話、僕も嫁も頭の中は自己中心の思いで、ものを考えていた。
「みんなで、札幌に?」
と嫁が口を切った。
「家族で一緒に行こうや」
と言いたかったが、嫁の顔を見て諦めた。
札幌に行くとなれば、小学校に入ったばかりの娘を転校させ、保育園に行く息子の行き先を見つけ、嫁に仕事を辞めてもらい、家を売り払い、札幌で家を見つけ、引っ越しだ。軽く考えただけでもめまいがするほどの困難がこの先待ち受けている。
容易に嫁が納得するはずがないだろう。
「いや~、俺一人、単身で行こうかと……」
妥協の言葉がつい出てしまった。
「あなただけで札幌に……」
嫁の肩の力が少し抜けたようだ。
「ところで、給料はどうなるの?」
「とりあえず、二年間は今と同じだけ補償してくれるらしい。その後は、出向先の会社と相談だ」
給料は変わらない。僕だけ単身赴任すればあとは今までと同じ。それがわかると嫁の不安は一気に飛んでしまった。
いつもの嫁に戻っていた。
「良かったじゃない。札幌はいいところって聞くし、今年の夏は子供達を連れて札幌に行こうかしら」
笑みまで浮かべている。
単身赴任なら子供達の学校も、住居の心配もない。引っ越し荷物も簡単だ。おまけにうるさい旦那がいなくなる。不幸中の幸い。いやそれ以上の幸運が舞い込んできたと言わんばかりだ。
僕はまだ単身赴任すると決めたわけではない。しかし、もうこれ以外に選択肢がないと嫁の中では結論が出てしまったようだ。
「給料を補償してくれるんだから転勤って思えばいいんじゃない。そのうち景気が良くなってくれば風向きも変わっていい話もあるはずよ」
ついには、僕を説得にかかる始末であった。
週明けの月曜日、僕は子会社に出向することを上司に伝えた。
あっという間に年が明け、三月になる。忙しい中、仲間が送別会を開いてくれた。
「食べるものはうまいし、美人も多いって言うぞ。俺は残れたけど、この先会社が持つかどうかわからん。つらいのは同じだ。おまえ、単身で行くんだろう?」
「そうさ、まぁ、札幌までついてきてくれるほどやさしい嫁じゃない…… 仕方ないよ」
「どこもおんなじさ。子供が出来れば父親なんて、亭主元気で留守がいいなんて言われてなぁ……」
同期入社の上田は、そう言って僕に選別をくれた。
三月末日、僕は辞令を受け取って会社に別れを告げた。
一週間後、いよいよ札幌に向かう朝、子供達が眠い目をこすりながら起きてきた。
「父さん、これ」
娘から手渡された画用紙に、熊と楽しそうに遊ぶ僕の似顔絵が描いてあった。
「ありがとう。しばらく帰ってこられないけど……」
娘の頭をなでながら、一番寂しい思いをしているのは俺なのだろうと感じた。
嫁が羽田空港まで見送りに来た。
「元気でな。子供達をよろしく頼む」
「まるで、戦地に向かうみたいじゃない」
神妙な僕の顔を見て嫁が笑った。
「札幌はまだ寒いっていうから、体に気をつけてね」
思いっきりの優しい嫁の声に、涙がこぼれ落ちそうになった。
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