終章

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 油浸対物レンズは既存のものでもNAが不足していたことが明らかとなったので、結局新調した。それを導入することでようやくそれらしいデータを得ることができた。  やりたい領域にまで踏み込めたのか、もろもろの結果をまとめたレポートを提出すると、データを見た先生が興味深げに言った。結果が出ると先生は普段より穏やかだった。 「なるほどね、電子一個がついたり離れたりしていると思うと面白いね。うん、次はどうしようか。低温実験をやるなら日向君に液体ヘリウムの使い方を教えてもらわないといけないよね。電顕の方を先にやるんだっけ?」 「低温だと油浸は使えないですよね?」 「確かにね。ソリッドイマージョンレンズの検討も必要か。NAは足りるか? 油浸でやっと見えたんだろ?」  僕はその後の方針を相談した。やっと、本当にやっとスタートラインに立てたような気がして、安堵するのと同時に、まだ誰も足を踏み入れていない領域を開拓しているような感覚がして、とてもわくわくした。  その日のミーティングはなかなか白熱したものになった。そして最後にこう宣言した。 「ドクターに行こうと思っています」 「どういう風の吹き回し?」  先生は訝しげに目を細めた。 「意義が見つかりました」 「何か見えたんだね」  僕はいつもそうだった。  ゼミがあるから、試験があるから、単位をとらないといけないから、先生に言われたから、修論を書かなくちゃいけないから。だから、勉強をやんなくちゃいけない。好奇心や興味から始めたはずの勉強はいつからか義務になり、常に誰かと比べて足りない自分を嘆いていた。勉強を引き算で見ていた。  僕は、この短い人生の中で相応の知識と経験が積まれているという当たり前のことに気付いた。確かに時間をかけたわりに得られた知識は世界の叡智に比べたら微量かもしれない。修士課程を終えた程度で何かを成すことができるとも到底思えない。でも見方を変えれば、その時間をかけなければ決して得ることはできなかった知識だった。二年かけなければ得られない何かがあるはずだった。  昔の僕たちはきっともっと学ぶことに自由だった。見渡す限り、世界は魅力的な謎で満ちていた。明日世界はどんな不思議を見せてくれるだろう。どんな謎が待っているのだろう。そんなふうにわくわくしながら、ノートを広げては書きつけて、突拍子もない仮説を立てては盛り上がっていた。でもきっとそれで良かった。勉強や研究の本質があの頃のノートの中にあることを僕は思い出した。そしてそれを思い出すきっかけを与えてくれたのは他でもないフェルミだった。 「どんな心境の変化があったのかはともかく、これまでの実験のペースで間に合うと思うなよ。ドクターは修士なんかよりもっと厳しいぜ。就職先が約束されているわけでもないし」 「わかっているつもりです」 「君の未来を保証することはできないが、少なくとも徹底的に君の未熟で足りないところを突きまくってやる。叩き潰すつもりでな。過酷になるぜ。せいぜい覚悟しておきな」  口調は悪魔的に厳しいが、どこかうれしそうだ。このころには、僕は先生の声色だけでその機嫌が推し量れるようになっていた。手を抜くやつには冷たいが、科学に真摯に向き合う学生に対してはとことん時間をかけて接するのだ。そういう人だった。  僕が居室を出ようとしたとき、先生は言った。 「期待している」  それからの僕は少しずつ、だが確実に変わった。シャーペンは好奇心を原動力にノートの上をかけまわった。あのころのように。ちーちゃんといっしょに謎を追いかけていたときのように。別に能力が開花したわけでも、劇的に変化したことがあるわけでもない。ただノートや教科書を広げる動機を変えただけでこんなにも世界が変わるということを僕は実感した。そうして自分で勝ち取った知識がなかなか消えないことも、北陸の雪のようにそれは次々に積もっていくことを知った。 「どうしてお勉強なんてするのー?」  もしまだフェルミがいたら、きっとそう問いかけてくるに違いない。何も答えを持っていなかった少し前の僕は渋い顔をして、きっと曖昧に答えただろう。けど今は違う。きっと、今なら。 「学問に深みや面白さを垣間見たからだよ、フェルミ。味気なかった数式に人の意思を見たからだ。きっとどんなに世界が複雑で難しいものに見えたって、真摯に向かいあえばきっと興味深いものになると僕は信じてる。だからだよ。だから僕は勉強するんだ。これからもずっと」  たぶんこう答えるだろう。
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