終章

1/2
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/63ページ

終章

 九月の最初の週末に、矢野さんが言い出しっぺとなって飲み会が開かれることになった。酒が飲みたくて、いつ開こうかうずうずしていたらしい。矢野さんに近所のスーパーまで強制的に連行された僕は、購入した大量の酒を学生居室のこたつテーブルまで運ぶ役に任命された。  飲み会が始まる前に、「妖精さんもつれてきましょう!」とはりきっていた矢野さんだったが、それはできなかった。僕がA市まで連れまわしたせいか彼女は熱を出してしまっていたのだ。飲み会は辻崎研のいつものメンバーのみで開かれることになったが、日向先輩と雛川先輩の二人が急遽先生に捕まって実験室に閉じ込められてしまったため、結局のところ飲み会は僕と矢野さんの二人きりでスタートを切ることになった。  飲み会が始まると、矢野さんは買ってきたアルコールをハイペースで摂取しまくり、前と同様すぐ顔を赤くした。買ってきたものの半分ほどを胃袋に吸収し、気持ちよく酔い始めた矢野さんが僕にこんなことを聞いてくる。 「冬木ってさぁ、どんな子がタイプなわけ?」 「矢野さん、酔ってる」 「矢野ちゃん!」 「矢野ちゃん」 「で、どうなの?」 「どうなのって……」  僕は困りつつも返答する。 「そうだな……適度に生活を支えてくれる人がいいかな。あと、あんまりしつこく遊びにつれていけって言われるのもつらいかも」 「ふうん……じゃあ、次の質問」  じっとりとした目で僕を見つめる矢野さん。 「この前さ、妖精さんと電車に乗ってどこ行ってたの?」 「え、見てたのかよ」 「今日は白状するまで帰さないかんな! このロールキャベツ男子め!」  午後十時ごろになると実験を終えた日向先輩と雛川先輩が学生居室に帰ってきて、酒飲みに加わった。学会の発表が終わってせっかくのんびりしていたのに、どうして装置の立ち上げに立ち会わないといけないんだと日向先輩は文句を言っている。どうやら、雛川先輩が旅行や遊びで最近さぼっていた罰として任されていた仕事が、ひとりでは手に負えないからという理由で日向先輩まで駆り出されたということらしい。いっぽう雛川先輩は「今度メシでもおごってやるから許せよ」と調子のいいことを言っている。ただ悪びれている様子はない。  飲み会はその後深夜十二時まで続いた。矢野さんの半分以下のお酒しか飲んでいないはずなのに、久々の飲酒だったせいか翌日僕は二日酔いになってしまった。矢野さんの話によると、後半になると僕はテーブルにつっぷしてしまい、フェルミ、ごめんな、とささやいていたという。研究室のメンバーには、フェルミの難しい理論を理解できなくて謝っているように映ったそうで、勉強のしすぎを疑われた。  今回の一件でどんな心情の変化があったかはともかく、妖精さんこと前園千春は少しずつ自分の声を取り戻していった。学生居室にもよく顔を出すようになり、辻崎研のメンバーと会話をするような光景も目にするようになった。  メッセージアプリ上での会話は続いた。もっともそれ以上の関係には進まなかったし、子供の時のような関係に戻るというわけでもなかった。過去に触れることもなかった。けどもう忘れることもきっとなかった。きっと卒業まで今の距離感が保たれ続けるのだと思った。僕は辻崎研の院生で、彼女は前園先生の姪にすぎなかった。彼女は僕のことを「ねえ」とか、「あなた」と呼んだし、僕も彼女のことを「妖精さん」と呼んだ。それ以上でも、それ以下でもなかった。
/63ページ

最初のコメントを投稿しよう!