序章

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序章

 進学先の大学院に通うためにD市へ引っ越しをする、だからもうお別れになる、とフェルミに告げたとき、彼女は「なんで?」と不思議そうに首を傾げた。どうも最初からついてくる気だったらしい。ただでさえ少ない奨学金をこれ以上お前の食費に充てるのは無理だからと説得してもみたが、彼女は最後まで首を縦に振らなかった。結局彼女に押し切られる形で、その年の三月末、家賃二万のぼろアパートへ僕たちは移り住むことになった。 「こたつは?」 「もうあったかいし、いらないだろ」 「今日はどこで寝るの!」 「布団」 「なんでよ。フェルミはどこで寝ればいいの」 「一緒に布団で寝ればいいだろ」 「やだぁ」  引っ越しを終えた日の夜、こたつと敷布団の両方を広げるスペースを確保できなかったので、僕たちはその日の寝床について少々揉めた。こたつが大好きなフェルミは、敷布団なんてどうでもいいからさっさとこたつを用意しろと言うのだ。そもそももう四月になるし押し入れにしまいたいと主張したが聞き入られず、最終的には僕が折れ、その日フェルミと一緒にこたつで寝ることになった。  そして僕は夢を見た。  それは、遠い過去の、夏の日の思い出だった。  僕は、祖父に連れられてとある祭り会場に来ていた。会場は日中の東京駅以上に混雑しており、歩くのもやっとだった。はぐれたら一巻の終わりだろう。そう思ったそばから祖父の手を途中で離してしまい、僕はたちまち群衆の餌食になった。まるで流れるプールに入ったときのようにしばらく人ごみに流された。  ふと、道の脇に設置されたベンチの上で、膝をかかえて泣きじゃくる浴衣姿の女の子を見つける。僕が近寄って声をかけると彼女はゆっくりと顔をあげた。  自分と同年代くらいの少女だった。迷子なのかと尋ねると、彼女はぶんぶんと首を横に振る。 「ちがうもん。そんなんじゃ、ないもん」 「別に強がんなくてもいいのに。僕もはぐれちゃったし」  彼女は品定めするように僕をまじまじと見つめる。そして僕の手元に視線を留めた。 「ノート?」  彼女が興味を示したのは「ふしぎノート」だ。僕は祖父に買ってもらったノートを常に持ち歩いていて、日常で感じた不思議なことを記録することが癖になっていた。僕は彼女に揚々と説明した。 「おじいちゃんが買ってくれたんだ。いつも持ち歩いているんだよ。気付いたときにすぐに記録できるだろ。僕の研究ノートだ」  さっきまで悲しみに暮れていた彼女は僕の研究に興味を示したようで、ノートを見せてくれとせがんだ。僕はちょっと嫌だったけど、汚さないようにね、と念を押してから彼女にノートを差し出した。彼女はふしぎノートをぱらぱらとめくっては、「ほぉ」とか「わぁ」とかしきりに感嘆の声をあげた。
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