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――トモくん、お魚は好き?  それは先週の晩のこと、  溶けだすような熱帯夜。  バー〈anchor〉のカウンター席で、常連のミナミさんは二杯目に珍しくモヒートを注文し、それを作るバーテンダーの智浩(ともひろ)の手さばきを、ほんのりと酔いに揺れる目で見つめた。  グラスに入れたフレッシュミントを、ペストルで潰していく。  器具同士がぶつかるたび、カンと冴えた音を立てる。 「いい音。暑い夜が嘘みたいね」 「でもミナミさん、明後日からは極寒の地なんでしょ?」 「そ、なんてったって南半球だからね。トモくん、今日のメルボルンの最高気温、何度だと思う? 十一度よ。同じ地球じゃないみたい」  彼女のメルボルン行きは一月前に聞いたところだった。出張、ではなく転勤だ。いわゆる栄転の部類だろう。  こうしてべったりと智浩に張り付きながら酒を飲むのも、今日を境にしばらくなくなる。智浩はそのことに少し安堵した。ミナミさんの粘着気質は、仕事でこそ存分に活かされるべきなのだ。 「そうだ。――ねぇトモくん、」  グラスを傾けながらミナミさんが笑う。 「お魚は好き?」  お魚?  手を止める智浩の眼の前に、彼女は二枚の紙切れを差し出した。 「これねぇ、すぐそこの水族館の年間パスポート。期限まであと二週間ぐらいなんだけど、私、メルボルンでしょ。彼氏もこれはもう要らないっていうからさぁ。  よかったら、トモくんと南陽(なんよう)くんで一枚ずつもらってくれない?」 「いいんですか?」  客からのこういった差し入れはままある。智浩はいつもの営業スマイルで喜んで見せた。が、内心扱いに困るプレゼントだ。  ひとまず店長を――南陽を呼ぶ。彼は「うわーありがとうございます!」と智浩に負けないぐらいの自然な営業スマイルをかました。 「いいのよ。楽しんで。私も向こうでペンギンでも見てこようかしらね。なんか有名みたいだから」
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