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三月は、引っ越しと別れのシーズンだ。三月の最終週となる今日は、きっとたくさんの別れのドラマが生まれるのだろう。
それは、私、下平小百合も同じことだった。
「いっけない、もうこんな時間」
慣れない化粧に悪戦苦闘しているうちに、時計の針は八時を回っていた。彼が乗る新幹線は九時発だ。遅れるわけにはいかない。こうしてはいられない。
「いってきまーす」
家の中の母に声を届けて、玄関から飛び出す。自転車にまたがって颯爽と走り出した。
白ベースにブルーのラインが入ったストライプシャツを着て、ボトムは白のフレアスカートを選んだ。雑誌で見た春コーデをそのままなぞらえただけだが、自分ではわりと気に入っている。
天気は良いが、爽快な朝の空気の中に寒さがまだひそんでいる。念のため、上にハーフコートを羽織っておいた。
それに、このコートにはちょっとした思い出があるから。
駅に着くと、キキッと音が出るほど乱暴に自転車を駐輪場に停めて、駅舎に向かって駆け出した。駅の入口から構内に入ると、入ってすぐの辺りで彼と彼の母親が待っていた。
こちらに気付いた彼が手を上げる。
「ごめん、もしかして待たせちゃったかな?」
「そんなことないよ。俺が、ちょっと早く来すぎていただけのことだから」
彼は、グレーのオープンカラーシャツを着てボトムはデニムのワイドパンツという出で立ちだ。滅多に見ることのない私服姿に胸がドキン、と跳ねた。
「へえ」と彼が私の服装を上から下まで見た。
「今日の服、可愛いじゃん」
「そ、そうかな」
褒めてもらえた。頑張っておめかしして良かった。
「小百合ちゃん、ごめんねえ。こんな朝早くから来てもらって」
彼の母親が、殊勝な態度で頭を下げる。
「あっ、いいえ。どうせ暇だったんで。私は地元企業就職なので、もう準備はあらかた済んでいますし」
高校を卒業したあと、私たちの進路は分かれることになった。私が就職。彼は東京にある四年制大学に進学する。そのため、今日新幹線でこの地を出るのだ。彼が引いているスーツケースを見ていると、ああ、これで本当にお別れなんだな、と胸が切なくなってくる。
「じゃあ、私は仕事があるからこれで。向こうに着いたらちゃんと電話寄越すのよ」
「わかってるって」
昨日から何度も繰り返し言っているんだよ、と彼が苦笑すると、母親がちょっと拗ねていた。
母親と別れ、駅の構内に二人で入る。新幹線が出るまでまだ四十分ほどあるのを確認してから、構内にある喫茶店に入った。注文を済ませてから、二人で並んで席を取った。
「荷物、それだけで足りるの?」
彼が引いているスーツケースが思いのほか小さくて、気になって訊ねた。
「ああ。この中に入っているのは着替えの一部と、生活必需品だけだからね。大きい荷物は、引越し業者に頼んで運んでもらうことにしている」
「そっか」
私と彼が出会ったのは、小学校に上がってすぐの頃だった。いわゆる、幼馴染という奴だ。
彼は、運動神経が良くて、頭が良くて、カッコイイ男子だった。それだけじゃない。面倒見が良くて優しいという、パーフェクトな男の子だったのだ。
反面私は、見た目は普通で、運動が苦手で、頭も取り立てて良くはない。そんな感じだから、彼は私を放っておけなかったのだろう。何くれとなく私の面倒を見てくれたものだった。
彼が近くにいてくれなかったら、私は、小学校でも中学校でももっと苦労していたはずだ。こう見えてすごく人見知りするし、周囲に合わせるのがあまりうまくなかったから。彼の行動を見て、生き方を次第に学んできた節はあるのだ。絶対に。
「砂糖いれすぎだよ」
コーヒーカップに、ふたつみっつと角砂糖を入れた彼を見て我すらず苦笑い。
「ええ、そうかな? でも、甘くなかったら美味しくないじゃん」
「そうだけどさ。限度ってものがあるよ」
クールな顔立ちをしているのでそんな印象はないが、彼は重度の甘党だ。イチゴの乗ったショートケーキが大好物。
これも、幼馴染である私だけが知っていることだ。
まあ、そんな彼なので、女の子にとても良くモテた。
中学に進学してからサッカー部に入って、そこでエースストライカーになって、高校でもサッカー部に入って変わらず活躍を続けた。
サッカー部のマネージャーの女の子ととても仲が良くて、二人は付き合っているに違いないという噂が、高二の夏からあちこちで囁かれていた。
文芸部所属の、冴えない女子生徒でしかない私は、そのことにたいそうヤキモキしていたものだ。ところが、二人は別に付き合っているわけではなかった。
仲が良い友だち、なんだそうだ。彼いわく。
これだけじゃない。そんなこんなで、彼にまつわる噂話は結構な数あった。何度か告白をされてもいた。それなのに、彼はそれらの告白をすべて断っていたらしく、ついぞ彼にまつわる色恋沙汰は聞こえてこなかった。
なぜなのかはわからない。
訊ねても、「今は恋なんてする余裕はないから」と彼はいつもはぐらかしたのだ。
新幹線の時間が迫ってきて、二人で喫茶店を出る。
二人並んでホームに佇んで、新幹線が来るのを待っていた。
吹き抜けていく風が肌寒い。
「寒いね」と私が声を出すと。
「寒いね」と彼が同じセリフで返す。
「いつものやつ、してもいいかな?」と言われ、頬が紅潮していくのを意識しながら「うん」と頷いた。
私がハーフコートのポケットに手を入れて、同じポケットの中に彼が手を入れてくる。
ポケットの中で、二人の手が絡み合った。男の子らしい、大きい手のひらだなって思う。それに、温かい。
雪が降る寒い日など、こうしてポケットの中で手を繋いで温め合ったものだった。朝の通学路で。部活が遅くなった帰り道で。彼のサッカーの試合を、見に行ったあとの帰り道で。
温かいのは、もしかしたらポケットの中だけだったかもしれないけれど、不思議と寒さを感じることはなかったのだ。
ポケットの中で手を繋いだまま、二人で昔のことを語り合った。
初めて会った日のこと。小学校の運動会のこと。中学に入ってから、私がイジメに遭ったこと。そのとき彼が、助けてくれたこと。そういった、楽しかったり苦しかったりした日々の出来事が、今は楽しい思い出に転化している。
これもきっと、君のおかげなんだよね。
話しながら、二人の肩は時折触れ合い、彼の囁きが耳元で聞こえている気がして、私の気持ちはたかぶりそうになってしまう。けれど、私は繋いだ手のひらから伝わってくる体温を感じているだけで精一杯だったのだ。途中から、何を話していたのかも覚えていないくらい。
この楽しい時間も、すぐ終わってしまうとわかっていたから。
空はいつの間にか曇っていて、小雨が舞っていた。
雨粒を切り裂いて、新幹線が駅のホームに滑り込んでくる。
新幹線のドアが開き、彼が乗り込んで振り向き、私と正面から向き合った。
彼が何か言いたそうに唇を半開きにして、しかし、何か言葉が発せられることはなかった。
私も、何も言わなかった。
ただ一言。「元気でね」とだけ伝えあって、次の瞬間閉じた新幹線の扉が、私たちを引き裂いた。全部終わった、という認識と一緒に、熱い想いがこみあげてくる。
走って追いかける間もなくホームを離れた新幹線の姿は、あっと言う間に見えなくなった。
これでいいんだ、と私は思う。
寂しいけれど、切ないけれど、お互いが前を向いていくために決めた結末がこれだった。きっとそれだけのことなのだ。伝えてしまったら、必ずいつか終わりのときがくるから。それが、わかっていたから。
ポケットの中のこの温もりは、もう間もなく消えてしまうのだけれど、あなたとすごした三年間の記憶は、この先もずっと消えないのでしょう。
だから、これでいい。
「大好きでした。あなたのことが」
ああ、やっと言えた。
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