私小説、もしくは杞憂と、藍の薔薇

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私小説、もしくは杞憂と、藍の薔薇

 高アルコールの缶酎ハイでレキソタンを四錠流し込んだヒメノは、酩酊の呂律で僕に対する感謝と謝罪を繰り返していた。彼女が笑って「私は幸せ者だなぁ」と呟く度に、部屋に転がった二次穴を塞ぐ為のアルミテープや入浴剤と食器用洗剤、未開封の延長コードが嫌に目に留まる。床に散らばったコピー用紙に羅列された活字と、赤ペンでの推敲痕。ヒメノがこの部屋で必死に足掻いた証に心が抉られ、自ずと言葉に詰まる。溢れんばかりの想いを噛みしめながら、自律神経がふれて、小刻みに震え出した彼女の手を必死に摩った。  数時間かそうやって過ごしていると、ヒメノの皮膚が半透明に薄くなっていった。全て、僕の杞憂であって欲しい。でも万が一、限られているのならば、せめて。何も知らない三白眼の恍惚な眦に焦燥を覚え、僕は彼女を外へと連れ出す。星も無い夜に、僕だけが持たされている鍵を使って、街を眺められる屋上庭園まで彼女を招待した。千鳥足で歩くヒメノを背中に負ぶったが、まるで死んでいるみたいに軽かった。  到着してすぐホワイトベンチに腰を下ろし、僕らはお互いの煙草に火をつけ合った。紫煙を吐き出して隣に視線をくれるが、ヒメノは真っ直ぐ前だけを見つめている。まるで僕の存在なんて最初からありはしなかったと言わんばかりの、美しい横顔に目が眩む。北を向けばネオンに華やぐ繁華街を拝めて、南を向けば何処までも続いている海を一望できるこの場所で、来るはずもない朝を待っている。 「なあ、ヒメノ。君は腐っても作家だろう。最後に一つ、君に頼みがある。僕の物語を書いて欲しいんだ。君の筆致で、感性で、想像力で、表現欲で僕が生きていた事実を書き残して欲してはくれないか。これ以上はもう、何も望まないと誓うから」  ヒメノはゆっくりと首を縦に振った。そのまま僕の手を取って立ち上がり、庭園中央に広がる薔薇の花壇に二人で横たわった。ここには藍い薔薇しか咲いていない。彼女は花に顔を近づけて、薔薇なのに香りがしないと腹を立てている。厭な目つきで不満を訴える様に、僕は仄かな微笑みを誘われた。この綻びは、彼女を強く愛した挙句の破顔だった。 「藍い薔薇の花言葉は不可能。当時、交配による品種改良では藍色の薔薇は実現しなかったから、そういう花言葉が付けられたんだと思う。だからここはすごいね。私にぴったりだ。不可能だらけの私にはこの場所が一番落ち着くね。不安はもう飽きたの。疲れたの」 「心配いらないよ。もうすぐこの街も終わるんだから」  なあ、ヒメノ。藍い薔薇にはもう一つだけ花言葉があるのを知っているかい。夢は叶うという意味だ。きっと朝が、迎えに来るさ。そんな泡沫の言い訳を彼女に伝えようとして隣を向いたが、ヒメノは消え、薔薇の中に埋もれたA4一枚分の私小説だけが其処にあるだけだった。
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