ただ溶け合って、ふたり、甘くないニュアンスのままで

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ただ溶け合って、ふたり、甘くないニュアンスのままで

 袱紗を何処へ仕舞ったのか思い出せず、部屋中をひっくり返していたら夜が明けた。  紫のワンタッチ袱紗にご祝儀袋を差して、化粧も珍しく徹底し、総レースのドレスに身体を通す。レンタルで一万円もしたけれど、ギャザーの入ったフリルスリーブが気に入ってこのデザインを選んだ。淡いラベンダーカラーに黒いボレロを羽織り、案外器用に抜け感シニヨンを作って早々に家を出る。朝の冷たい空気が段々と陽に暖められている、そんな風が吹いていた。  今日は大学時代の友人の結婚式で、私は披露宴まで出席し、二次会は辞退した。別に予定もなかったけれど、なんとなく、私は行くべきではない気がした。お酒に酔ってしまって、幸せそうな彼女に水を差すようなことを、私は言いかねない。過去にそれくらいの距離感で付き合いがあった友達ではあるし、結婚報告を受けた時も心からおめでとうと思える相手だった。  実際、挙式で彼女のウエディング姿を見た時私はちゃんと泣いた。真っ白なチャペルに光が漏れて、人生で一番美しい姿をした友達が、誰よりも愛する男性の下へと父に連れられ歩いていく。綺麗だったし、結婚とは無縁な生活を送っている私ですら、いいな、とか思ってしまうぐらいに、彼女の笑みは眩さを放っていた。柔らかな誓い。四半世紀を振り返るビデオ。子から親への手紙。披露宴のプログラム中もいくつか泣いて、こんなつもりじゃなかったんだけどなって、私は同卓の旧友たちと笑い合って、幸福のお裾分け、なんてちょっと失礼な言い方かもしれないけれど、枯れた生活に潤いを数滴垂らしてもらいながら私は結婚披露宴を終えた。旧友たちから当たり前のように二次会を促されたけれど、私は惜しまれながら一人で電車に乗り込んだ。時刻はまだ午後三時過ぎで、どこかで酒でも飲んで帰ろうと決めた。レンタルしているドレスなので、泥酔して汚したりはしたくないので常連の大衆居酒屋は避けたい。私のことではないけれど、特別な日。いつか、彼奴が私の誕生日に食事を奢ってくれた高級エスニックにでも行こうかと、進路を東京駅方面へ向け、中央線に乗り込んだ。  電車に揺られながら考えるのは、披露宴の最中、何をするにも新郎と行動を共にしていた彼女の姿。その瞳には、六年前のことなんて何一つ記憶にないようなほど、明日を見つめる輝きだけで満たされていた。学生の時分、私たち三人はいつも一緒に行動をしていた。いつからか、彼奴が彼女を好きになって、私たちは三人でいることを控えた。でも、彼女は彼奴に興味なんてなかった。私と二人で飲んで、「ああいう希死念慮とか押し付けてくる男と恋愛できないよね、メンヘラ野郎は無理」と彼女は口をひん曲げていた。私はしっかり頷いた。私だって、彼奴に好きだとか言い寄られたら面倒で仕方ない。悪い奴じゃないし、恋愛対象に入らないほど不清潔で魅力が乏しいわけでもないけれど、なんでか彼奴とは恋ができない気がした。これは最早、女性の共通認識なのではないかと疑っていたが、四年次の頭に、彼女は突然彼奴と交際を始めた。経緯はよくわからないけど、三か月で別れたあたりをみると女側が、なんとなく、付き合ってみようと思ったのだろう。破局後、失恋気分の彼奴を慰めているうちに、彼女とは疎遠になったまま私たちは大学を卒業した。  本当に莫迦な男で、彼女が別れ際、「私が人生に疲れたら、あなたと一緒に死んであげる」と言った言葉を、彼奴はずっと信じていた。だからか、別れたあとも恋はしなかった。「あの子が人生に疲れた時、俺が幸せだったらダメだろ」とか言っちゃって、本当に痛かった。ロマンチストなのは表現者、若しくは画家の性なのかもしれない。売れない作家でいる彼奴を置き去りにして、私も彼女も一般企業に就職し、時間は恐ろしく速いスピードで流れて、私はそれでも季節が移ろう度に彼奴と食事はして、段々と痩せていく彼奴を心配に思いながらも、自分からは吐露してくれない彼奴にたまに苛立った。男女の関係になることもなく(迫られても困るけど)、全くその気がないことに不満を覚えるくらいに酔い合った夜も越えた。腐れ縁って言い方が正しいのかもしれない。芸術に疎い私は彼奴の美術館巡りについて行っても退屈だったし、私の推しがライブをするのに同伴させた時は彼奴もきっと退屈だったけど、お互いにそれが会わない、行かない理由にはならなかった。  寒かったから、晩秋だった気がする。何件かはしご酒をして、四件目のショットバー。酩酊間近の私の隣で煙草を吸いながら、「お前と生きていくのも、案外悪くないかもな」と言った日が最期、彼奴は学生時代からの予告通り、ちゃんと自分で自分の命を終わらせた。なんだよ、彼女のこと待てなかったじゃんか。葬儀の帰り、参列していた彼女と少し話をした。泣き腫れた瞳で「私が殺した」とか物騒なことを言い出すから返答に困った。自殺する前々日、彼奴は彼女に「明日、下北沢で会いましょう」と連絡を入れていたが、死の一か月前からちょくちょくと来ていた連絡にうんざりしていた彼女は、当時から旦那とも付き合っていたわけで、「行きません」と返事をした。これは彼奴が気持ち悪いだけだし、彼女の行動は別に間違っていない。だから彼女が彼奴を殺したわけではなく、彼奴が勘違い野郎で、はた迷惑に死んでいっただけだ。ただ、希死念慮の強い人物だとわかりながら、一緒に死んであげるなんて適当な約束を誓った彼女にも非はあった。彼奴は莫迦だから、本当に待っていた。彼女が人生に疲れてしまうことを、約束を守れる日を。不躾で、不幸で、ヒステリックでトラジェディな男。やっぱり悪いのは彼奴だから、気にせず幸せに生きてね、と、私は喪服姿の彼女を抱きしめながら伝えた。  彼女は私の言いつけ通り、彼奴を忘れて生きた。季節の変わり目で私は彼奴の墓参へ行くけど、彼女が来た形跡、残像のようなものを私は一切感じなかった。墓は自殺した男らしく、お供えも花も線香も、私が手向けたものを私が取り換える寂しさに包まれている。先週末に彼奴の花を取り換えてあげたから、今日はもちろん墓参りへは行かない。それにドレスだし、さすがに。ただ、私はこんなに幸福な日ですら、彼奴のことを考えている。好きだとか、愛し合ったとか、そういうものが彼女と違って私にはないのに。  男女の友情がどうのってよく話題になるけれど、二人の間に男女の概念すらなくなればきっと成立はすると思う。そもそも成立って言い方が良くなくて、私と彼奴は溶け合っていた。甘いニュアンスじゃない。本当に、水溶き片栗粉みたいに一つの流体だった。彼奴が死んだ衝撃で、私はダイラタンシー現象を起こして固体になった。一つの物質になった私と彼奴の友情は、紛れもなく永遠になった。だから、俗世間的な男女の友情理論で言えば、私達は成立したまま終わりを迎えたから、未来永劫「友達」でいられるのかもしれない。  東京駅に着いて、新丸ビルで自分用にキーケースを買った。食事をする店も予約はしていなかったけれど、一名ならと窓際の席を通してもらえた。東京駅と夜景を見下ろしながら、彼奴が好きだった生春巻きと、私が好きだったトムヤムクンを注文する。シンハーで喉を潤しながら、煙草吸えたらな、なんて考えていた。タイ語が飛び交う店内は高級感があって、記念日を祝う男女や女子会などで賑わっている。今、煙草や自殺のことを考えているのは、この場所で私だけだろうな。そう思う。  なんで死んだのよ、とかは思わない。生前だって会う度に、この人は本気で死ぬかもなって、私は薄々わかっていたから。それに私は人の生き死にを正誤で語れるほど偉くもないし、自殺が「よからぬこと」だとも考えてはいない。でも、いきなりいなくなるなんてさすがに狡いよね。私はさ、別にあんたと毎日生活を共にしたいとか、生涯傍にいてほしいなんて一度も思ってなかったけど、年に四回、季節が変わったら美味しいものを食べて、誕生日を祝って、酒も飲んで、煙草を吸う時間を案外生き甲斐にしてたんだよ。それを無下にするような、失恋自殺とか格好つけちゃって。死ぬ理由、それだけじゃないくせに。恋の方はわかってたくせに。あの子がもう二度と、あんたのことを好きになんかならないってこと。付き合えた時だって、きっと俺のこと好きで付き合ってくれたわけじゃないって自覚してたでしょ。待つことに固執して、未来を見ないように逃げ続けて、あんたは死んで、あの子は結婚したよ。じゃあ私はどうなるのさ。私は独りだよ。あんた、最後に言ったよね。「お前と生きるのも、案外悪くないかもな」って。嘘つき。なんとなくだったんでしょ。最低。次は寿司って言ってたじゃん。回らない寿司、たまには食おうって。いつなのよ、それ。貧乏人のくせに、私と食事をするときは財布を緩めたりして、また奢ってよ、無理して奢ってよ。そしたらプレゼント、あんたが欲しがってたブランドのスーツでも、画材でも、なんでも買ってあげるからさ——。  感傷的なのは性に合わない。早々に食事を切り上げて、私は夜の街路樹を散策した。十一月中旬から丸の内のイルミネーションも活発になっていく。煌びやかで高級感ある街を相応のドレスで歩くのは楽しかったけれど、さすがに冷え込んで足早に駅へ引き返した。電車に乗って帰路を目指してみたけれど、なんとなく、可哀そうだから彼奴に会いに行ってやろうと思った。一度家に帰って、こんなドレスは脱いで、普通に暖かい恰好をして、別に綺麗な私じゃなくていいから、会いに行ってあげようと。だって、この間行ったんだから、今日来るなんて予想もしてないだろうし。驚いた顔が目に浮かぶと、自然に頬が綻んだ。独身二人で、寂しくカップ酒でも飲もうよ。  出逢い、流れていく幸福と、風化し、過ぎ去っていく不幸。一般はそうやって生きていくけれど、別に逆があってもいい。暗雲と寂寞の幸福に、郷愁的な不幸。電車に上りと下りがあるみたいに、好きな時に乗り換えればいい。彼女は上りで、私は下る。対になったホームに挟まれて、莫迦な彼奴が線路に立っている。車窓を眺めながら、そんなことを考えていた。明日も朝から仕事だから、今日は長話しないからね。
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