晩年

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晩年

 王子ホールを出ると、二月の容赦ない寒風に僕の長い襟足が揺れた。吐息はあっという間に白んで、数時間前まで高揚と情熱に燃え盛っていた身体が冷却されていくのが少しだけ淋しかった。思うに、都心部の冬は東北とはまた別の冷たさがあるような気がする。青森で暮らしていた頃はもっと寒かったけれど、ここまで惨めな想いを感じる事はなかった。ビルの隙間から吹き込む針のような俗っぽい風を食み、僕はチェスターコートを深く着込んで銀座三原通りを進んだ。外気の低さもあって、マロニエの電飾がいつもより華やかに僕の目に映る。正面から手を繋ぎ歩いてくる若い男女が、目の前で右折してスターバッグスリザーブへと吸い込まれていく。恋情を頬にたっぷりと含んだ女の瞳が男を眺める様を見て、一度ヴィトンにでも寄ろうかと思ったが、彼女を待たせるのが嫌で僕は先を急いだ。  並木通りに店を構えるビストロに到着し、個室へと案内される。白を基調とした絢爛な店内を進むと、天井が高く、シャンデリアが印象的な室内で彼女は既にシャンパンを愉しんでいた。椅子を引く前に「彼女と同じものを」とウェイターに告げ、僕は「待たせて悪かったね」と彼女に言った。 「いいのよ。人を待つの、案外嫌いじゃないから」  ウェイターがシャンパンを注ぎ、一礼をして扉から離れる。彼女はちょっぴり悪戯な表情を浮かべながら、 「それじゃあ、『孤狼』の演奏に」  と、僕に向かってグラスを傾けた。 「ああ、乾杯」  縁を合わせ、軽やかな音を鳴らしながら僕も答える。大きな仕事を終えた晩に、愛する人と交わす酒の旨さは格別だった。 「もうその呼び方してる人いないよ。『孤狼』なんて、僕が未だ二十代前半の時の異名じゃないか」 「いいじゃない。私からしたら貴方は永遠に『孤狼』よ」  彼女はアミューズとして出されたアンチョビクリームのサブレを頬張りながら言った。ステージ上から遠巻きに見えた紫色のドレス姿は、こうして眼前に置くと更に艶やかだった。くっきりとした目鼻立ちと淡いラベンダーが良い塩梅で溶け合っている。疲労のせいか、特別な夜にしたい気持ちが強いせいか、いつにもまして彼女が美しくてたまらなかった。  孤狼。学生時代から僕は襟足を伸ばすのが好きだった。昔、大恋愛を遂げた女性がウルフカットをしていて、彼女に別れを切り出されてから今の今までこの髪形を続けている。近頃の前衛的な変形ウルフではなく、緩やかなパーマのかかった、落ち着きのあるウルフ。ピアニストにしては珍しい髪形で、孤独を訴えかけるみたいに鍵盤へ向かう僕を、どこかのライターが『孤独な狼』と名付けたことでこの綽名が知れ渡ったのだった。省略された『孤狼』という呼び名には、僕の演奏に賛否両論が付き纏っている証拠でもあったのだろう。 「貴方、その髪型が一番似合うわ」 「巷じゃ若作りに必死だという意見もあるらしいよ」 「桁違いの童顔が何言ってるのよ。それに貴方、まだ三十になったばかりでしょう。そうだ、これ」  おめでとう、と彼女が僕にダリアの花束を渡して初めて、今日が自分の誕生日だという事を思い出した。優雅な中輪種の紫が彼女に似ていて嬉しい。僕はそれを大切に受け取り、隣の椅子に優しく寝かせた。 「これはコンサートと、誕生日、二つの意味を込めて贈るわ。お花以外も用意があるけど、それはまた別の機会に。今日はどちらかと言えば演奏会を労う気持ちの方が強いの。やっぱり私は、貴方の弾くピアノソナタの中でも第九番が好きよ。特に第一楽章は、本当にモーツァルトの生まれ変わりを感じるわ。才能よ、さすがね」 「クラシックに造詣が深い君に褒めて貰えるのが何よりも幸せだ。ありがとう」  二月二十一日、銀座四丁目の王子ホールで僕の二回目となるピアノソナタ全曲演奏会が行われた。彼女は僕がコンサートを開催する度に足を運んでくれている。出逢った当時からクラシックが好きだと彼女は明言していたが、恋人でも、馴染みの仲でもない僕のピアノに足繁く通う彼女の心理は正直掴めなかった。僕らは互いを信頼しているし、セックスだって何回もしたことがある。心が砕けそうな夜に朝まで電話したことも、北欧ノルウェーのレーヌという村にまで旅行したことだってあるのに、彼女はいつだって僕が交際、もしくは婚約を迫るとそれを嫌がった。理由はなんとなくわかっている。わかっているが、僕にはよくわからない部分でもあった。 「なあ、やっぱり僕ら、恋人になってしまおうよ。それかもう、結婚しないか」  彼女は「そうね」と言いながら、仔羊のフリットにナイフを通している。目線を合わせることはないままで、僕は彼女の淑やかな手を見た。白くて細い、ぽっきりと折れてしまいそうな華奢な指先には、起き抜けの雲みたいな灰色のネイルが施されている。 「やっぱり答えはノオか」 「うん。私、貴方の事を愛しているけれど、そういう誓いはできないの。これは貴方には納得して貰えない部分だとわかるから、貴方が私を嫌いになるまで何度も誓いを断り続けるわ。何もかもを貴方に赦して、最後の一つを赦さない不躾さには、目を瞑って欲しいけどね」  一口に切った仔羊の上にトリュフと菜の花を乗せて口へ運んだ。僕は食事の手を止め彼女の仕草を瞳に留める。「美味しい」と微笑む彼女のことが、やっぱり僕にはよくわからなかった。 「彼のことが、まだ好きなのか」 「違うわ」彼女はここで顔を上げて、じっくりと僕の目を覗き込む。いつもそうだった。「それは違う。私が愛しているのは貴方だけよ」 「ならどうして、君は僕と結ばれてくれないんだ。僕は君を幸せにできる自信があるよ。これは未だ情報解禁してはいけないんだけれど、クラシックの名門レーベルから、十一月に僕のアルバムがリリースされることがつい先日決まったんだ。これからもピアニストとして食べていける。君の為にいくらだってピアノソナタを弾いてあげる。僕はこうして全てを誓えるのに、それでもダメか」 「ダメね。でもあまり悲しまないで。貴方の魅力が乏しいわけじゃないのよ」  それに、意固地になっているわけでもないの、と彼女は言う。 「君にとって彼はそんなに魅力的だったのか。彼が死んでもう六年が経つ」 「そんなに経つのね。時の流れはいつも早くて参っちゃうな」  僕の親友である彼と、今、目の前にいる彼女はもともと恋人同士だった。彼は大学時代から小説家を目指していた。その影響か、私生活は酷く荒んでいた。酒は必ず潰れるまで呑むし、レキソタンやカフェイン剤をミンティアのように噛み砕いては、よく笑い、よく泣く男だった。女遊びも多く、僕は彼を「太宰」と呼んでひやかした。自殺未遂も数え切れないような自堕落な男に、「最愛の恋人が出来た」と連絡を貰った時はさすがに驚いたし、初めて僕が彼女と顔を合わせた時なんて、あまりの美人で開いた口が塞がらなかった。清廉で、聡明で、色気もある彼女のような人が、どうして彼を好きになったのか定かではないが、彼女が彼を今でも溺愛しているのは明確だった。 「君は、彼の小説を読んだ事はあったか」 「ないわ。あらすじはよく話してくれたけれど、肝心の内容までは読ませて貰えなかった。いつも、『作家になって、有名になってから君には読んで貰いたい』とか誤魔化して、私には見せてくれなかったから」 「僕はあるんだ」僕は意を決して、彼の話を続ける。「あまり君の前で彼を批評したくはないけど、稚拙な小説ばかりだったよ。死生観と性ばかりを描いた破滅的な話。遺書のつもりで書いているなら個人の自由だけれど、自分が書きたいものを出鱈目に書いたからってまかり通る世界じゃない。それでも彼は諦めずに創作に打ち込んでいたようだけど、結局は人生の負荷に耐え切れなくなって自殺したんだ。呆れるよ。それも、恋人である君を差し置いて、別の女と死にやがった。最期まで莫迦な男だった。いい加減、彼を忘れてもいいんじゃないか」  僕は彼の死んだ年に、クララ・ハスキル国際ピアノコンクールで現代曲賞、青年批判家賞を受賞した。僕も彼も同じ表現の土俵に立っていた。全ては才能の有無ではなく、結局は努力であり、苦悩と向き合う時間の量だ。僕は酒や薬に逃げなかったし、ましてや女に甘えたりもしなかった。葛藤は全て八十八個の象牙色と黒の鍵盤にぶつけた。だから今がある。だから、突然独りにされた彼女を、僕は見ていられなかった。最初は相談に乗る程度で食事に誘ったつもりが、彼女の魅力に僕はまんまと憑りつかれた。彼女を愛するほど、僕は親友であったはずの彼が許せなくなった。だって彼女の素肌には、彼の匂いが深く染み込んでいる。鼻腔が歪むほど、彼女からは莫迦な男の香りがするのだ。 「貴方は信じてくれないだろうけど、私は彼のこと、考えてみればあまり好きではなかったの。でもその反面、私は彼の全てになりたかったの。これは恋じゃないのよ。勿論、愛なんて物騒なものでもない。ポエティックな幻想は私たちの間にはなかった。彼が魅せてくれるのはいつだって最低の現実だった。それでもね、私は彼を支えてあげたかった。大事な部分が言語化できなくて貴方を苦しめてることは承知してる。でも、私がこれから誰を愛したとしても、何かを誓うことができるのは彼だけだったという気持ちに変わりはないの」  力強く、はっきりとした口調だった。しかし打って変わって、彼女は眦に薄らと水滴を集めていた。触れたらすぐに流れ出てしまいそうな涙を堪えて、僕の隣で首を傾げるダリアに彼女は視線を注いでいる。 「ねえ、貴方。彼が自分で命を絶つ直前に書いた晩年の作品、どんな話か知ってる?」 「しらないよ」 「特別に教えてあげるわ。彼が死ぬ夜、私に原稿を差し出して『この世界で唯一、君だけの為に物語を書いた』って遺した作品。彼が別の女性と死んでくれたおかげで、私は人生で初めて、彼の小説を読むことができたの。若くして数多の賞を取り、天才ピアニスト『孤狼』と呼ばれた男の栄光の裏に隠された、葛藤、挫折、絶望の四半世紀を描いた小説だったわ。私、今でもその小説を寝る前には必ず読むのよ。ねえ、私の言ってることわかるかしら。私は貴方を愛しているのよ、本当に」  彼女の唇が震えて、我慢していたはずの涙が線となって頬を伝っていた。その刹那に、僕が何に怯えていたのか理解した。彼が死んだ二十四歳の冬。僕と彼を隔てたのは才能でも女でもなく、眩く、そして凄惨なまでの現実への渇望だったのだ。 「君と彼は、よく似ているよ。頭がおかしくなりそうだよ、僕は」  彼女の涙に、僕の心は行く先を見出す。この先、喧騒としての冬がどれだけ僕に冷たくあしらって、煌々とした日々を拒もうとしても、僕は前に進むと心に誓った。だって僕は今、彼女の事を少しだけ嫌いになって、今日よりも明日、もっとピアノが好きになると思えているから。
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