非、斜陽の女盛り

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非、斜陽の女盛り

 私、二十歳になってお酒を覚えて、世の中にはこんなに愉快になれるものが、最低賃金のアルバイト代だけで、法にも触れぬまま、自由に手に入るなんてと、乙女、世紀の大発見。それに、私の方が飲みたくて男性を誘うのに、男は見栄っ張りを発揮していつも勘定を持ってくれる。ただで飲むお酒はあまり酔えないから、男性の期待にはいつも応えられないけどね。ごめんね。まあ中には、私のことなんてどうでもよくて、対面にお喋りの上手な人形さえ置いておけば満足するような、酔狂な、哀れな、白痴な、可愛い酒呑みの男性もあったりして。彼、売れない詩人? 作家? まあなんでもいいけど、とびっきりの屑なの。酔うと頻りに「傑作を書くんだ」とか騒ぎだして、煙草を蒸かしながら泣いて、挙句は「僕が死ねないと思って馬鹿にしてるんだろ、いいよ、君が最期の女になってくれ」とか言いながら手首を切ったり、薬を飲んで吐いたり、まるで捻くれ中学生みたい(笑)。滑稽、独身、似合わないウルフカット。私はね、そんな彼を見てふと、彼の子どもが欲しいと思ったの。気狂いかしら。なんでもいいわ。彼、別にハンサムじゃあないの。醜男ってわけでもないけど、何だか思い出せないような暈夜けた顔をしているわ。私、彼の顔を見ながらお酒を飲んではいないから、思い出せなくても当然ね。じゃあ何処に視線を留めているのかって、勿論、手よ。女はね、男性の手しか見てないの。他の部分は正直どうだっていいわ。手が好きなら永遠に愛せるけれど、手が嫌いだといくら貯金があって誠実でも、関係が三日も持たないものね。触られたくない手って、論外でしょ。つまりそういうこと。彼は爪に紫のネイルを塗っていて、それがまあ発色が良くて、彼が吐瀉物を撒き散らして路地で倒れ込んでいる時の唇の色とそっくりで(彼はその紫を紫陽花、竜胆、ラナンキュラスとか言っていたけれど、過大評価が過ぎるわ)、私は彼の退廃に心底惹かれちゃったの。きゅんっ、ぎゅり、ぽわって、しちゃったの。私、相当なデカダン派かもね。  彼の大きな背中を摩りながら、雑踏で人様の冷たい目下しに煽られながら介抱をしている時間が好きなの。私はこの時間の為にお酒を飲むような気までしてきて、それでもこれは恋とは違くて、私は恋と革命を信じない質で、じゃあ代わりに何を信じているかと言われたら一つ、才能だったの。彼は呑み屋でよく自分語りをするのだけれど、私小説とやらを書いているそうで、その言葉一粒ずつがしっかりと彼の凡才を否定しているのは間違いないんだけど、「才能がない、才能をくれ、無理なら愛してくれ、それも無理なら一緒に死んでくれ」という四連口癖ばかりを吐く自己肯定感の低い彼の子を産むことが、私、令和、Z世代、多様性に反骨する密かな逆襲になるような気がしてるの。生きること、生命の誕生、育みと躍進だけが私の正義。心中とかにロマンスとかは感じないの。ほら、自殺幇助罪とか、とっても不安な言葉があるじゃない。ああ、厭だ嫌だ。アンチとか、誹謗中傷とか、ああ、怖い恐い。  その日は七月にしては酷く蒸す晩だった。私はいつものように夕刻駅前改札口で彼と待ち合わせて、大衆居酒屋でチンチロ回してメガジョッキの乱打が一件目。店を変えて冷酒を二人で十合、チェイサーに烏龍ハイで二件目。ショットバーでカクテルを一杯ずつ飲んで去り、深夜零時直前に適当な店に入って惰性のお酒を吐くまで続ける。この四件目で彼は、私に秘め事を一つ洩らした。 「僕には今年の九月で四歳になる娘がいて、これは友人誰一人にも話してない、というか話せないことなんだけどね。酒の勢いで君には話しておくよ。実はね、円満なんだ。今でも月に二度は嫁子どもと食事をする。可愛くて仕方ないんだよ。目に入れても痛くないってのは本当なんだね。家族関係は良好だけど、僕の酒癖の悪さと自殺企図を配慮して彼女の方から離婚を提案してきたんだ。僕のこと嫌いになったんだと思ったよ。でも彼女は未だに僕を愛しているんだって。狂ってるよな。でも嘘じゃない。だって僕の事が嫌いだったら、愛する娘を僕に会わせてはくれないだろう。僕と結婚して出産までするような女だ。最初からネジが外れてるんだよ。え、嫁の名前? どうしてそんなことを知りたがるのさ。女ってわけがわからないね。嫌だよ、教えない。代わりに娘の名前ならいいよ。ゆうかだよ。あなたにしては普通って、普通が一番だろ。それに僕だけの娘じゃない。優しくて芳しい女の子に育って欲しいと思って、優芳。綺麗な字だろう。なあ、僕は何処で間違えたんだろうな。酒を鍛えてしまった時? 最愛が自殺した時? カフェイン中毒で卒倒した時? 作家を目指した時? 肉親に敬語を使うようになった時? 泥水を飲まされた時? 給食のお代わりを同級生にズルされて貰えなかった時? 母が間違えて僕を父の名で呼んだ時? 違うね。生まれた時だよ。その瞬間もう既に、間違えていたんだ。帝王切開で母の腹から僕が抉り出された瞬間に、僕は今夜、君にこんな話をして、そうだこれを最期の晩餐にして死んでやろうと決めていたんだ。ペンネームの晩餐はそういう意味だよ。滑稽だろ。まあいいや。君、次は何にする。僕は焼酎を貰うけど、君はずっとハイボールだね。そんなんじゃ酔いが冷めるだろう。一緒に日本酒でも貰おうか。店を変える? 僕の部屋? 来ない方がいい。失恋と挫折が散らかってるよ。冗談だ。やっぱり来てくれ。タクシー呼ぼうか。家に帰ったら少しだけ胸を借りたい。泣かせてくれ」  私は結局彼の家まで着いて行って、彼の高級ウイスキーを二人で一本しっかりと空けて、身体を寄せ合ってシングルベッドに寝転んだ。彼はアルコールの浸食に唸りながら、ずっと一人の女性の名前を呼び続けていた。その人は奥さんでも、死んだ最愛でも、母でも、娘でも、私の名前でもなくて、彼の方から別れを切り出した、今でも忘れられない恋の相手だった。「彼女は今、幸せだろうか。僕なんかの恋人を少しでも経験させてしまって、それだけがずっと悔やまれてる。死ぬ前に一度ぐらいは謝りたいけど、関わらないことが一番なんだろうな。綺麗な人だった。メトロノームのような人だった」私は彼と手を繋ぎながら、長ったらしい恋の話に耳を傾け続けた。激しく飲んで暴れたせいで、彼の右中指の爪が割れ、ネイルがパリッと剥げてしまっている。そうだ。彼は作家でも詩人でもない。ただの酔いどれ恋弱ポエマーだったのだ。そりゃあ売れない。才能がないんだもの。ぶち殺してあげなくちゃいけない気がした。恋と革命の為に生きるなんて莫迦らしい。これだけ生活力があるのに、希死念慮が並走して、この人、自分でもどうすればいいのかわからないんだ。だったら私が教えてあげる。私に子どもを産ませるの。あなたは凡才だった。でも、私は天才。あなたの種を頂戴。私きっと、咲かせてみせるわ。紫陽花でも、竜胆でも、ラナンキュラスでも、自由自在にね。 「そういえば、君、名前は」  彼が私の胸に額を近づけて問う。私は「さあ」と答え、「あなたは?」と訊ね返す。 「僕か。僕は世良だよ。ほら、苗字を教えたんだから、苗字くらいは教えてくれ」  酔っ払い二人の溺会話。お互いの名前なんて本当は知っていて、興味もないはずなのに、どこかそれが楽しくて、私、一生お酒は手放せないと思ったの。彼の男性にしてはわりに長い髪を撫でながら、 「世良さん、私好きよ、あなたの書く作品。でも、私が書いたほうがきっといい。だから私、あなたを愛しているけれど、あなたを否定するわ。あなたが死んでも革命は起きないよ。好奇心の悪魔たちに監視され、嘲笑と同情を繰り返されるだけ。風化の時代だもの、仕方ない。寂しいでしょ。怖いでしょ。かわいいな」  と言った。 「勝手にしろ、僕が死んだら晩餐っていうペンネームを君にあげるよ。で、君の苗字は」  私は彼の紫にグロテスクした唇にキスをし、起き上がって自分の身なりを整えて、玄関へ向かい靴を履いた。彼が起き上がって私の手を掴んで淋しそうな眼をしたけれど、私はもう種を貰ったので、彼の傍にいる理由はなかった。彼の手も、今は好きじゃなかった。私は一刻も早く家に帰って、小説を書きたかった。傑作を書くのよ。振り返り、刹那、泣き出しそうな彼に最期の言葉を告げた。 「私の苗字は瓜生よ。ペンネームを貰ったら、瓜生晩餐って名前で活動させてもらうわ。正真正銘、作家になるのよ」
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