朱夏の哀惜

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朱夏の哀惜

 その日、私は欠陥と呼んで然るべき太陽の照射に悲鳴をあげながら、吉祥寺で野暮用を済ませていた。「野暮用」なんて洒落た言い方をしてみたが、最近女と同棲を始めた友人と久しぶりに酒を飲むだけのことだった。野郎二匹、大衆酒場で薄い酒をちゃんぽんしながら、質の悪さを必死に量で誤魔化した。しこたま溺酒すると、男同士にしかわからない貧苦による高尚な離脱感に陥り、私の方から友人を唆して風俗へ入った。酒代の倍額を女に使った友人は、半年ぶりに恋人以外の裸を拝めて満足だと爽やかな微笑みをみせた。憎めない、あまりに健全な友人の様相に焦燥を覚え、結局私たちは終電間際まで再び飲み直すことにした。女に金を使ってしまったから、会場は一次会よりも安価な居酒屋を選んだ。お通しはカットし、肴もえいひれの炙りと新香盛り合わせ、それと小海老の唐揚げだけで二時間は粘った。すっからかんになった私の財布。とはいえ貧乏も、男ふたりで味わう分には粋なものだった。私はその晩、浮いついた陽気の酔いどれとなって友人と別れた。  帰路の電車内、私の携帯宛に懐かしい女からLINEのメッセージが何通か続けて送られていた。麻由美だった。暈夜け眼、好奇心と倦怠の真ん中でトーク画面を開くと、一番上には結婚披露宴への参加を促す内容と、ウェブ招待状のURLが機械的な文章と合わせて表示されている。結婚したのか、麻由美。私は驚いたが、車内なので声には出さぬよう心で麻由美の結婚という事実を咀嚼した。長いチャット文をスクロールすると、今度は麻由美の言葉で私と近いうちに会っておきたいという内容の文章が続いていた。一瞬だけ喜んでしまったが、続きに「私の旦那も出来れば同席させたい。私がどんな男と結婚するのか、あなたに見せておきたい」というはた迷惑な文言まで追加されていた。私は鬱陶しくなって、酒の勢いもあり、披露宴の招待と麻由美個人の誘い、どちらも承諾してスマホの画面を落とした。  翌週の水曜日、私は新宿のオフィスビル街にある喫茶店で麻由美と落ち合った。そこへ昼食の時間を割いて麻由美の旦那が現れ、私たちは三人で小一時間ほど談笑し、旦那は忙しなさそうに仕事へ戻っていった。旦那の時間に制限がある平日の昼間を選ぶあたり、いやらしい麻由美の魂胆が窺える。旦那は清潔感のある男前で、スーツがよく似合う紳士的な会社員だった。私は自分がよれた黒いブロードシャツを着ていることに酷く恥をかいた。そのせいか、旦那が場を去るまでは上手く口が回らず、あろうことか私は二人に対して一度も「ご結婚おめでとうございます」と伝えるのを忘れていたのだ。私は余裕のない男だ。喫茶店の勘定も、旦那が置いていった五千円で支払われた。会計は二千四百円だった。私の財布には現金が二千円しか入っていなかった。   それから私は麻由美に連れられ、全席個室のイタリアンに入った。まだ陽は燦々と昇っていたが、私はハイボールを、麻由美はサングリアを飲んだ。喫茶店では遠慮して吸わなかった煙草に火を付けると、麻由美が一本欲しがったのでやった。彼女は喫煙者ではない。しかし学生の頃、私といる時間が長すぎて煙は誰よりも多く吸わされていたはずだ。一度だけ、バアで麻由美が酒の勢いで私の煙草を吸った時があった。あれほど煙草を蒸かす姿が様になる女を、私はこれまで麻由美以外にみたことがない。  四年ぶりに会う麻由美は痩せていた。というより、単純に窶れていた。先週私に結婚披露宴の招待状を送ってきた女とは思えないほど、顔面には悲愴が漂っている。結婚。女にとって、愛する男と結ばれた今ほど幸福を享受できる時間はないのではないか。麻由美の旦那は二つ下らしく、出逢ったのは大学を卒業して直後だと言っていた。誠実なだけではなく、歳を重ねる度に貫禄の増しそうな威厳、落ち着きも備わっている強者の背筋をした男。危うい麻由美と連れ添うにはうってつけという印象を、私は先の一時間で得たと彼女へ話した。麻由美はちっとも笑わなかった。私は取り乱し、まさか子どもの有無はと訊ねると、「そんなんじゃないよ」と柔らかく鼻で笑われた。 「私がああいう男と結婚したこと、どう思う?」  難解な質問だった。最適解を麻由美の表情から弾き出そうと、彼女の瞳を惜しまずじっくりと眺める。そうだ。麻由美はあの頃から、悲しみだけが似合う女だった。男に困らぬ容姿を持ち、阿婆擦れみたいに誰とでも寝る女。彼女が男に飢えていたわけではない。愛に吝嗇で、麻由美はただ寂しさを埋める術を他に知らなかっただけなのだ。私は一度も麻由美を抱いたことがなかった。学生の頃、私は精神を壊していて、慾みたいなものは女に対し微塵も沸き上がらなかった。セックスは常に社交性の枠組みを出ず、女の調子に合わせて排他的に行うものでしかなかった。精神が安定し私の慾が戻ってきた頃、今度は麻由美が気を病んで、結局私たちは一度も素肌を見せ合わずに終わった。キスや抱擁の数は多過ぎて覚えていない。性行為だけ、特別したいとも思えなかった。麻由美の魅力が欠けていたわけではない。せめて私ぐらいは、麻由美の目に有象無象の男として映らぬよう善処してやりたかった。  もうどうしたって、男は愚かな生き物であると私は理解している。男には選択権がない。哲学がない。教養がない。狡賢さがない。一方で、手に余るほどの真心と慈愛がある。しかし男はそれを扱い切れる知性がない。だから女に頼るのだ。柔肌の、きめ細やかな舌触りだけが男の慈愛へ呼応する。女は男の純真をどぶ臭い排水溝に溜まる鼠の糞だと考えているが、そうではない。男はいつだって女の幸福を願っているのだ。それすら気づけない女という生物にはやはり倫理がない。詭弁がない。ロマンスがない。母性という名の着いた飼育欲だけが、女の血潮を占めている。私の出逢ってきた人間の中で、とりわけ麻由美は女だった。私は他の男のように、麻由美を愛することも、麻由美の美しさに狂うこともできなかった。当時、私は既に女に絶望していた。そんな私の無機質が麻由美にとって拠り所となり、大学三年の後期、麻由美が病んで男で遊ぶのを止めると、飼い慣らされた猫のように私の懐へ丸まってくるようになった。二人で酒を飲む度に泣き出して、一緒に死のうと私を誘う馬鹿な習慣が麻由美についた。私はいつだって「人間はそんな簡単に死ぬとか言っちゃいけないよ、生きなくちゃ」と彼女の背中を摩ってやった。  私は麻由美の眦に、本日、学生以来の情死の提案を見つけた。私は酒を飲んだ。私が貧窮な作家志望であること、麻由美が結婚していることを忘れる為に三半規管を壊した。酩酊に隠れて麻由美の問いに答えないでいると、彼女は郷愁的な声色で私との過去を語り出した。私は伸びた前髪の隙間から麻由美の顔をちらちらと覗いた。頬が仄かな恋情と呼ぶべき朱に染まっていた。淫靡な下唇の感触が記憶にこびりついていて、思わず下腹部に雷鳴のような衝撃が奔った。  店を出る頃、私は滅びの美学に興奮を抑えきれなくなっていた。麻由美は私の腕に絡み付き、身体を擦り寄せて歩いた。結婚という一般の選択肢。私は麻由美に取り憑いた一般を祓ってやりたい気持ちになった。これは慈愛だ。裏路地を歩きながら、人目から出来るだけ離れることを無意識に二人、意識した。夕刻、夏の陽は永く、未だ昼と呼んで差し支えない青が上空に広がっている。麻由美は私の手に指を絡ませ、「今なら私と死ねたりする?」と上目を遣って脣を震わせた。少女のようだった。私は立ち止まり、彼女に覆い被さるようにキスをした。蝉の輪唱が男女の破廉恥をかっ攫ってくれた。麻由美が解れたような顔になって、私の横腹を小突いた。 「くだらないね。キスで誤魔化すとこ、昔からだよ。今も未だそうやって女の子泣かしてるんでしょ。私、あなたに何回泣かされたかわかんないよ。優しいのに、とことん冷たい。傍にいてくれるのに、愛してくれない。正直しんどかったよ。病んだのも、半分くらいあなたのせいだったし。自覚ないでしょ。でもあなたは変わってなくて安心したよ。今日はありがとね、さすがに帰らなきゃ」 「どうして帰る」私は麻由美の腕を掴んで離さなかった。力を込めると一瞬だけ麻由美が顔を歪めた。「死ぬんじゃないの、俺と」 「馬鹿。冗談に決まってるでしょ。人妻に何言ってんの。ほら、帰ろ」  その後も、私は麻由美を思っていくらか問答を重ねたが、彼女は一向に首を縦には振らなかった。この女は無理をしている。最初から帰る場所など、私の部屋を除いて彼女には存在しないはずだ。どれだけ生活力のある男を捕まえようと、結局は麻由美程度に狂える間抜けな男だ。私は違う。私はお前を愛していない。これからも愛することはない。愛されないことは安全ということだ。私は麻由美を危険な目に会わせたくないのだ。どうしてわからない。私の部屋に来れば、あの頃みたいに安全さ。なんだその目は。まるで私が慾に翻弄されて麻由美を口説いているみたいじゃないか。勘違いするなよ。私がこうやってお前を部屋に上げようとするのは、全て慈愛が根底にあるのだ。慾などありはしない。私は愚かな男で、金も地位も名誉も生活力もないが、教養くらいは持ち得ている。自惚れるな。永遠を誓われたがりの低能。約束も守れない愚かな戯け者。恋に踊れる惨めな兎。夏に甘い香水を纏う白痴な女。死ぬ気もないのに情死を誘う、単純明快ファッション希死念慮の傀儡。死にたい女が結婚など、捧腹絶倒。私を莫迦にするのもいい加減にしろ。あべこべも大概にしろ。命を大事にできないお前が、どうして幸せになれようか。私は正直、今晩にだって死んでもいいさ。どうせ短命。でも気に入らない。死にたいのであれば、どうして結婚なんてしたんだ。金か、世間体か、はたまた養育か。私に何も話さなかったじゃないか。愛して欲しければ、まずは私を認める努力をするべきだ。麻由美、そんな顔をしないでくれ。私は本当に、お前の幸せを想って——。 「自分の間違いくらい認められるようになりなよ、あなたもいい年齢でしょ」  麻由美の声が横殴りの熱風に紛れて鼓膜を刺激した。爛れた耳にはノイズとして響く。駆け引きみたいなものが喧しく思えて、無理に麻由美の腕を引っ張って私の住まいがある三鷹へと引きずろうとした。麻由美が私の腕を力いっぱい振り払って、「痛い。私、結婚したから」と怒気を孕んだ声で漏らした。突き刺すような鋭利の視線。麻由美のぬるい吐息だけが、夏の抜け目だらけな空気に挟まっていった。 「ごめん、今日のこと、全部忘れて。やっぱりあなたは変わったよ、じゃあね」  私を置いて三鷹とは反対方面に歩き出す麻由美の背中を目で追いながら、「女は病気だ」と独りごちった。この劣等の正体は一体なんなのだ。私は何に敗北した。一般。貧困。慈愛。結婚。慾。麻由美。紫色の痣。息が詰まる。私は麻由美を愛している。だから、愛していると伝えないのだ。彼女が壊れないように、私は努力の人を続けたというのに。そんなこともわからず、相談もなしに結婚。やはり女には倫理がない。お前の手は棘だらけさ。やはり私は、女のいない世界にいくべきかもしれない。  私は先週に吉祥寺で飲んだ友人に電話をかけた。時刻を確認すると、丁度仕事終わりの頃合いであった。今晩は貧苦な私であるが、酒も女も男の友情に免じて奢ってやろうと一人でにやついた。しかし電話に応答した男が、今夜は恋人と家で夕食を取ると言い私からの誘いをきっぱりと断った。金を出すと言ったのに、男は乗ってこなかった。嗚呼、女は私から全てを奪うのだ。私は酒や死を畏れているわけではない。ただひたすらに、女に怯えているのだ。私は友人に「死んじまえ」と怒鳴って電話を切った。  晩夏を待つ八月の上。汗ばんだ額を手の甲で撫でながら、私は煙草に火をつける。こんなに気温が高いのに、身体は冷や汗をかいている。麻由美の喫する姿が脳裏に浮かぶ。思わず気が狂いそうになって、私は足元に転がった朱夏の残骸に痰を吐き出した。愛を模すほどに真っ赤な丸が、私の小さな影に重なっていた。
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