彼に群がる褄紅蝶を、私は明日も赦せないままで

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彼に群がる褄紅蝶を、私は明日も赦せないままで

 私の全てを捧げた人が、私の畏れた羽に包まれ、そのまま何処かへ消えてしまった。  本棚の平台で寝かせていたフォトフレームを手に取り、ハイビスカスを背景に映る私と彼の写真を眺めた。いつかの旅行で屋久島に行った時に撮影した記念写真。私に頭を寄せられ、少し照れ笑ったような彼の屈託なき微笑みも、全ては苦しみの上に形成された偽りの姿だったのだろうか。写真の中の彼と目が合って、部屋の隅々に散り隠れていた彼の声が、一気に私の耳へ流れ込んでくる。静寂を壊すほどの愛。好きだとか、ずっと傍にいるだとか、寂しい気持ちにはさせないなんて、守れないのなら最初から口にするべきではない。そういう甘さが彼の欠点で、そんな優しさに私が惚れ込んだのもまた事実だった。  九月上旬の屋久島は未だ身体に堪える暑さをしていたけれど、朝方に宿を抜け出すと涼しい風が心地良かった。海岸沿いを二人、手を繋いで歩いた。言葉はあまり交わさずに、照葉樹林と広大な海の青さに自然を感じる。このとき私は幸福の意味をようやく知れたし、彼の手が私から離れてしまう日が来るなんて想像すらできなかった。今では刹那の温度すら鮮明には思い出せないというのに。  島の至る所に咲くハイビスカスにはしゃいでいると、私たちは熱帯を彷彿とさせる珍しい蝶を発見した。彼も私の隣で少年のように瞳を輝かせ、その蝶を観察している。先端がオレンジ色をした大きな羽を力強く揺らしながら、花の蜜を吸う様は淫靡で華やかだった。  私が写真を撮っている間に、彼は蝶の名を調べてくれた。ツマベニチョウ。名前に引けを取らない美しい蝶に見惚れて、私たちはより強く手を握り合った。あの時に、気づいてあげれば良かったんだ。彼が何処か遠くへ行きたがっていることや、もう限界が訪れていたことに。  虫の知らせというやつなのか、その晩はいつにもまして不安になって、私は彼に電話を掛けた。深夜二時。迷惑だろうとかまわなかった。今、彼の声を聴かなければ、どうしてか一生聴けなくなると思って着信を飛ばした。しかし、彼は何度掛けても電話には出なかった。夜更かしばかりで、眠りが浅い彼と音信不通になるなんて初めての経験だった。胸が締め付けられて、嫌な予感がいくつか浮かぶ。その中で、私が一番当たって欲しくない想像がくっきりと浮かび上がる。  彼の周りに寄って集る、薄汚い虫のこと。彼の魅力を知っているのは私だけではないし、様々なことを半信半疑のままに放置してきた。異性なのに「親友」と呼べる相手がいたり、きっと彼のことを未だに忘れられない元恋人が近くにいたり。真実を問えば彼は嘘も世辞もなく答えてくれるだろうけど、私には全てを訊き出し、それを受け止める勇気がなかった。彼が私の知らない服を着ていると辛くなって、行きずりの趣味が出来ると要らぬ心配ばかり増えた。自分に自信が持てないことも、彼を心から信じられないことも、まとめて彼のせいにしたくなった。何度も泣いて、慰められ、面倒だと思われ、嫌われたくないとまた泣いた。それでも彼は優しくて、私の傷が増えないよう、時間が許す限りは傍に居てくれた。私は彼に支えられて、何とか生活をすることができていた。それなのに。  私は焦って家を飛び出し、彼が暮らしている部屋へとタクシー使って急いだ。深夜三時半。玄関の前に立ち、恐る恐るインターホンを鳴らす。反応はないが、このドアの向こうに彼がいるとわかった。温もりがあったからだ。分厚い扉を越えた先に、彼がいると私にはわかった。怖くなって、扉を叩いて彼の名を呼んだ。何度も、喉が潰れるまで呼び続けた。ほどなくして隣の部屋からタンクトップ姿の男性が怒気を孕んだ表情で顔を出す。私はその時既に泣いていて、男性も怒りをぶつける気にはなれず私に「どうしたんだよ」と訊ねてくる。彼がこの向こうに居るんです。と私が言って男性を睨むと、男性は酷く怯えたような顔で自分の部屋に戻っていった。  それからずっと玄関前に座り込んで泣き続けていると警察が来た。交番に連れて行かれ、熱いお茶を出され状況を説明しろと促される。あの部屋には、彼がいるんです。私の言葉に背の高い警官は目を丸くしていた。すると、交番の奥から柔らかな雰囲気の婦警が出てきて、私の背中を摩った。頭が段々と冷静になり、自分の気が狂っていたことに血の気が引く。  彼はもう、あの部屋にはいない。今はきっと誰も住んではいない。何週間も前に、彼はあの部屋で死んでいた。一人、私と映った写真をジャケットの胸ポケットにしまい込んで、ドアノブにロープをかけて首を吊っていた。私は何か勘違いをしていた。彼に寄って集った薄汚い虫は私の方だった。私の心が壊れていて、それが彼を蝕んでいった。私と出逢ってから彼は酷く痩せたし、笑う回数も減った。自分の心が落ち着かないと彼に当たり、酷い言葉も何度だって浴びせた。無理しないでと彼に言われると腹が立った。いっそ死んでやると私が吠えれば、彼は命懸けでそれを止めてくれた。そんな生活の中で、私が壊した。彼の未来も、心も。  あの、ハイビスカスの上で羽を休めるツマベニチョウを二人で見た時、彼は「綺麗だね。君によく似てる」と私に言った。私は馬鹿で、彼に対して「あなたもきっとこうなれるよ」なんて返した。できる限り私たちは同じが良かった。腹の形も羽の色も、好きなものも歩む未来も、傷も苦しみも愛も絶望も。私たちはそっくりでいたかった。そういう利己的な部分が、一人の人間を殺した。傷ばかり増えていく意気地なしの私とは違って、彼は一思いに羽ばたいたのだ。私はそれを思い出して、息が詰まるほど泣いた。この先何度も、彼を思い出しながら泣くのだろう。彼に群がるツマベニチョウを、私は明日も赦せないままで生きていくのだろう。
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