黄色いBボタン

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黄色いBボタン

「あぁほら、そこがダメなんだよ隼人(はやと)は。いつもそこでアクセル抜いちゃうでしょ? 要はビビってんの。ビビらずにBボタンは押しっぱ! そこが私との差だね!」  俺のプレイを隣で見ながら、千早(ちはや)はそう勝ち誇った。ニヤリと人を食ったような笑みは千早のトレードマークだ。  初夏、雨の日の土曜日。幼なじみの俺と千早はその日、外で遊べないから一緒にゲームをしていた。家が近く同い年の俺たちは、当たり前のように互いの家を行き来して遊んでいたのだ。  その日は千早の家の番。ゲームタイトルはスーパーマリオカート。スーファミが誇るレースゲームの傑作だ。  俺の操作するミドリガメのノコノコは、見た目とは裏腹に軽快なスピードでコースを走って行く。そのまま大きなミスもなく規定周回を終え、ついにゴールラインを通過。  タイムはまぁ、まずまずと言ったところ。でも千早の記録には遠く及ばない。  アイテムありのGP(グランプリ)なら勝率は五分五分なのに、タイムアタックでは全然、これっぽっちも千早には勝てないのだ。  アイテムの優劣に左右されないタイムアタックは、プレイヤースキルがものを言う。つまり俺よりも千早の方が速い。悔しいことにそれは事実だった。 「純粋な速さなら、やっぱり私の方がまだまだ上だね。見てな隼人。タイムアタックはこう走るんだよ」  俺からコントローラをもぎ取るようにして、千早はスタートラインにつく。選んだキャラは大きな猿のドンキーコングJr.だ。コイツが一番強そうだから、というシンプルな理由。実に千早らしい選択。  千早はいろいろガサツだし、胡座(あぐら)をかいてゲームをするし、短く切り揃えた髪で遠くから見たら男に見えることもある、とにかく活発な女の子だ。  普通の小学校高学年の女の子とは全然違う。クラスの誰かがいじめられていたら、いじめっ子が男子だって容赦しない。平然とケンカを売りに行って(こぶし)で勝ってしまう、女の子らしくない女の子。それが千早だった。  口が裂けても言えないけど、俺は千早のそういうところが好きだった。恋とか愛とかわからない(うち)からきっと、俺は千早のことが好きだったのだ。 「ようし、ロケットスタート!」  千早の操る大猿は、グリーンシグナルと同時にロケットスタートを決めていた。きゅいーん、と効果音が鳴り、大猿はぐんぐん加速していく。タイムアタックには必須のテクニック。  第一コーナーをアウトインアウトで抜け、次のヘアピンは飛び跳ねながらドリフトする。滑るような立ち上がりは針の穴を通すくらいにタイトだ。  コーナーを曲がる時、身体がその方向に少し傾くクセ。それを見るのも俺は好きだった。  千早は身をくねらせて、レコードラインを走っていく。チェッカーフラッグへと向かって。 「——やった! 見て見て隼人! 記録更新! やっぱり私、世界で一番速いかも!」  ゴールした途端、コントローラを放り投げて何故か俺に抱きついてくる千早。というよりヘッドロックに近い。痛いやめろと叫ぶ俺を無視して、千早は一階へと向けて声を上げる。 「おかーさーん! カルピス二つお願い! 濃いめのヤツね! 氷もたっぷりで!」  千早は俺に不細工なヘッドロックを決めたまま、ニカリと笑ってみせた。いつもの人を食ったような笑顔で。 「また私の勝ち。隼人が私に勝てるのはいつになるのかな?」 「待ってろ、そのうち絶対抜いてやる。毎日、猛練習するからな」 「楽しみに待ってるよ。ま、どれだけ練習したって勝てないと思うけどね? こういうのはほら、持って生まれたセンスだからさ」 「言ったな。それじゃあ、俺が勝ったら何かしてくれよ。俺が喜ぶようなことを」 「何でもしてあげる。よしよししてあげよっか? 頭なでなでして、こんな風にさ」  言いながら千早は、ロックを決めた俺の頭を乱雑に撫でる。千早が飼っている犬のアグリみたいな扱いだ。  アグリはそれをされると嬉しそうに尻尾を振るけれど、あいにく俺に尻尾はない。あってもまぁ、絶対に振らないけど。 「……やめろって千早、それアグリにしてやれよ。俺はそんなに嬉しくない」 「そう? それは残念。それじゃあ隼人は、私に何して欲しいのさ?」  そこではたと気がついた。俺は千早に何をして欲しいのだろう。自分でそう言ったものの、明確な答えはない。  それは多分、千早にして欲しいことがもう叶っているからかもしれない。  これからも、俺は千早と一緒にいたい。一緒にこんな風に遊びたい。俺の願いはそれだけだ。  これから成長して、小学校を卒業して中学生になって。高校生になって、もっと大人になっていくその時に、千早といることが出来たなら。こうして一緒に遊んでいられたら。だから。  ——ずっと、俺と一緒にいて欲しい。  でもそれを言えるほど俺は大人じゃなかったし、残念なことにそこまで子供でもなかった。中途半端な俺は、代わりの言葉を千早に告げる。 「それじゃ千早、俺が勝ったら祝ってくれ。おめでとうって、心から言ってくれ」 「そんなのでいいの?」 「そんなのがいいんだ」  千早はそれを聞くと、「ヘンな隼人」と笑った。少し呆れたような顔で。 「いいよ。私に勝てたら、いっぱい祝福してあげる。おめでとうって、うんとたくさんね」  もう一度、千早は笑った。  今度は優しい笑顔で。  小学五年生の夏のこと。千早が水の事故で亡くなる、一週間前の出来事。  あの日の千早の笑顔を、俺はいまだに忘れることができないでいる。  俺の心はずっと。あの夏の雨の日に、囚われたままだった。  ◆ ◆ ◆ 「あら久しぶりね、隼人くん。一年振りかしら? 調子はどう?」 「お久しぶりです、おばさん。まぁ、ぼちぼちやってます」 「元気そうでよかったわ。上がっていくでしょ? カルピス用意しようか。いつもの濃いめので」 「おばさん、俺もう三十路(みそじ)超えてますよ? ここは普通、アイスコーヒーとかじゃないですか」 「あら、歳は関係ないでしょう。だってカルピスは大人になっても美味しいんだから」  千早のおばさんは柔らかく笑った。目元がやっぱり千早にそっくりだ。おばさんの笑顔に釣られて俺も自然と笑顔になる。  一年振りに訪ねた千早の家は、あの頃と全然変わっていない。玄関に入った時の空気も、そして笑顔のおばさんも。あの夏の日のままだ。  リビングに通されて、飾られている千早の写真と目が合う。写真の中の千早は、人を食ったようなあの笑顔。遺影としてはどうかとも思うけど、でも千早と言えばやっぱりこの顔だとも思う。 「隼人くんがここに来たということは、また千早と勝負しに来てくれたのね」 「今日こそ勝ちます。勝って、千早に報告したいこともあるんです」 「男の戦いってヤツね。応援してるわ。隼人くん、ちょっと座っておいて。すぐに作っちゃうから」  俺はリビングの椅子に腰掛けて、キッチン越しに近況報告をする。  三十路を超えて身体が思うように動かなくなってきたこと。また転勤になって、今度は東京よりも東に行くこと。加えて仕事が全然面白くないこと。それでも何故か、毎日が楽しいと思えること。  俺が話すたび、おばさんは優しく相槌を打ってくれる。柔らかい笑顔のままで。 「隼人くん、ちゃんとしたもの食べてる?」 「まぁ、その辺りは適当に。太るとアレなんで、油ものとかは控えてますけど」 「大人になったわねぇ」 「もうあれから二十年ですよ。自分でも驚きますよ、ほんとに」  ちらりと視線を這わせて、あの頃のままの千早を見る。  ——隼人、おじさんになったねぇ。  そんな千早の声が、聞こえた気がした。 「さ、出来たわよ。濃いめのカルピス、氷もたっぷり。ゆっくりしていってね」  おばさんに手渡されたお盆には。当たり前のように、二つのカルピスが並んでいた。  カルピスを持って、俺は二階の千早の部屋に入る。あの夏の日、時間が止まってしまった千早の部屋に。  こうして定期的に訪れているのに、千早の部屋に入るといつも懐かしく感じてしまうのは何故だろう。  俺は床に座り、古いスーファミのスイッチを入れた。色褪せたグレー色の本体に、電源が入ってほっとする。  選んだカセットは当然マリオカート。ポップで楽しげなタイトル音楽が鳴り、ゲームモードをタイムアタックにする。  マリオカートには、ゴーストと呼ばれるシステムがある。一番速いタイムアタックのプレイデータが、ひとつだけ記録されるのだ。  もちろんそれは千早のゴースト。千早が記録した、あの夏の最速のプレイデータ。  千早はこの世にもういない。どれだけ会いたいと思っても、その願いは叶わない。  だけど残してくれたものはたくさんある。このデータはその中のひとつだった。  ここでマリオカートをする時だけ、俺は千早に再会できる。また一緒に遊ぶことができる。  でもあいつはいつも最速で駆け抜けていくから、追いつくのはかなり難しいのだけど。  キャラセレクト画面で、黄色いBボタンを押してそいつを選択する。もちろんノコノコだ。一番遅そうなキャラで勝つってのは、いつだって男のロマンだよな。  それにあの時に選んだキャラで千早を超えないと、そもそもこの勝負に意味がなくなってしまうから。  スターティンググリッドでアイドリングをするノコノコ。その隣には半透明なドンキーコングJr.がいる。  このゴーストには触れられない。ぶつかりそうになってもキャラが重なるだけ。  だけど確かに、ゴーストはそこにいる。一緒にコースを走っている。  この瞬間。間違いなく俺の隣には、あの夏の千早がいた。  ……なぁ、千早。俺、今度結婚するんだ。千早とは全然違う、とても落ち着いた子だ。  驚くだろ? 俺が結婚なんて。自分でも信じられないよ。  俺さ、千早に祝福してほしいんだ。俺が勝ったら、うんと祝福してくれるって言ったよな。  俺、猛練習したんだ。復刻版のスーファミミニで、毎日毎日。  俺が勝ったら、千早のプレイデータは上書きされて消えてしまうけど。でも、いつまでも立ち止まってはいられないから。  だから俺、千早に勝つよ。  今日ここで、絶対に。  俺の言葉に呼応するようにして。並べたカルピスの氷が融け、カラリと澄んだ音を立てた。まるで千早に「勝ってみな」と言われているみたいだ。俺は少し苦笑して、居住まいを正す。そして。  赤信号が点滅して、緑の信号が点灯する。  それがスタートの合図。  瞬間、Bボタンを強く押し込んで。俺はあの夏の日を駆けていく。少し前にいる千早を追いかける。  ——そのBボタンを、押しっぱなしにして。 【終】
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