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第三話 夢ではないようです
夢だったのだ、と思い込もうとした。
旧家の掃き掃除を終え、夕食を食べ終わり、一人静かに就寝。朝起きたら散歩がてらスーパーまで歩いて食材を買って、家で朝食。床の拭き掃除を終えて、気分転換にコンビニまで出向いてホットのカフェラテを買った。
思い浮かぶのは、昨日のこと。
閻魔と交わした契約が頭にチラつく。
というのも、私の右手の人差し指には確かにまだ傷が残っていた。それは閻魔が契約書に捺印させるために噛み付いた痕で、彼の犬歯は人より尖っているのか、未だにズクズクと痛む。
馬鹿げてるって分かっている。
もう私は今年で二十九歳。
十分過ぎるほどに大人オブ大人。
旧家の仏壇裏にあった秘密の扉が冥界と繋がってました、なんて親戚に話しても誰一人信じないだろう。それどころか私の正気が疑われる可能性すらある。
(でも……地獄、行きたくないなぁ……)
何の罪も犯していないのに地獄行きを言い渡されるって酷すぎやしないか。いくら審判を務める閻魔だからって、重刑が過ぎる。
かと言って、あの赤鬼のパンツから出て来るであろうペンチで舌を抜かれるのはもっと嫌。
考え事をしていたら、いつの間にか家に着いていた。
そそくさと靴を脱いで手を洗い、仏壇の前に座ってみる。今日も写真の中で穏やかな笑みを浮かべる祖父母は、彼らの晩年よりも幸せそうに見えた。幸せな時だけを切り取れるから、写真というものは便利だと思う。
「おばあちゃん……地獄って本当にあるの?」
答えが返って来ないと分かっていても、私は問い掛けていた。あまりにも夢物語。だけど、じゃあこの指の痛みはどう説明すれば良いのか。
死ぬのは恐ろしい。
地獄に行くなんて、その何十倍も、怖い。
力を入れて仏壇を押す。そこには昨日のまま、あの扉があった。恐々と引いてみると、真っ暗な闇も変わらずにある。念のために今日は懐中電灯を手に進んでみることにした。
(………やっぱり、ね。夢だったんだわ)
白いライトが照らし出すのはただの壁。
闇には呆気なく終わりがあった。
しかし、引き返そうと後ろを振り向こうとした時、すごい力でその闇は私を吸い込んだ。
「うわぁっ………!?」
間抜けな声を上げながら落ちた先は、何やら見覚えのある場所。今日も軽快な音楽が流れているけれど、この世界は年中祭りでもやっているのだろうか。
「お、来たな。逃げ出したかと思ったぞ」
顔を上げると、手を腰に当てて私を見下ろす閻魔と目が合う。
逃げ出したかったですとも。可能であれば二度とこんな恐ろしい場所に来たくなどなかった。だって、この世界においては彼の機嫌を損ねれば地獄行きなのだ。そんな絶対君主が居る世界、恐ろし過ぎる。
「これで地獄は回避ですね……」
「そうだな。この調子で継続してくれ」
「あの、閻魔様」
「どうした?」
「私は今、祖母の家の片付けで一時的に滞在している場所からここへ来ているんです。二週間後には東京に帰るので、もうこの世界には来れないと思います」
トウキョウ、と口の中で呟いて閻魔は首を傾げる。
二週間後に急にブッチして「契約不履行だ!」と地獄へ落とされては困るので、一応伝えておいた方が良いだろう。私的にも二週間の辛抱だと思えば、少し気が楽だし。
「何を心配しているのか分からないが、お前がこの世界に来れなくなったら俺は契約違反と見做す」
「理不尽……!」
「まぁ、よほど良い働きぶりだったら多少大目に見てやらんでもないが。とにかく、精一杯やるこったな」
そう言ってバシバシと背中を叩くから、私は前につんのめって転びそうになった。メモ、閻魔様は怪力。
そういえば、今日は前にいた半裸鬼は居ないのだろうか。不思議に思ってキョロキョロしていると、どこからか黄色い鬼が姿を現した。
「閻魔様ー!遅れてすみません!」
「遅刻は厳禁。今月の給料から引くぞ」
「ひぇ~!もうしないので、それだけは勘弁!」
冥界にも給料制とかあるんだ、という至極真っ当なツッコミを誰に入れるべきか分からずに沈黙を貫く。
仕事に戻るという閻魔は私の面倒を黄鬼に押し付けて、気怠そうにカランコロンと下駄の音を響かせながら消えて行った。
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