小さい恋の物語

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六 育子の父親が、早く帰ってきた。一流銀行の支店長になった父親は休日だからと行って仕事が休みになるわけじゃない。休日は顧客の接待をしなければならない。顧客からの評判が銀行人事に大きく影響するからだ。 さらに支店長となれば、家族同士の付き合いや、子供の学校の評判や成績も出世を左右する。  代々銀行一家で財を築いてきた吉沢家は家族が協力して父親を支えていく。それが家訓になっていた。 母親も育子も父親が気分良く働けるように気を使い、父親の前では悪いニュースや暗くなる話は一切しない。特に食事のときは、父親が楽しく食事できるよう気を使っていた。 家族三人が一緒に食べる夕食は久しぶりであった。 「今日は、育子に良い知らせがあるんだよ」 「まぁ、なんでしょう?」 母親が笑顔で答える。 「実はな、奈良○○女子大学の付属小学校に転入できないかって銀行の取引先の人に頼んでおいたんだが、ちょうど空きが出来てそこに転校できることになったんだよ。あそこに行けば中学まで一貫教育だし、難関高校の進学率も高い。育子にとってはいいチャンスだ。  今の学校に転校して間もないけれど、公立の学校じゃ勉強に遅れが出るばかりだ。それに態度の悪い生徒が何人もいると聞いた。新しい学校に移って授業を受けた方が良い。慣れるのに少し時間がかかるかも知れないが育子ならやっていけるはずだ。どうだ?」 いい話だろうと言わんばかりに父親が言う。 そんなぁ! と思った母親だったが、 「まぁ素敵なお話ね。ちゃんと育子の将来のことまで考えてくださって」 と気持ちを抑えて答えていた。 突然の話に育子は驚きを隠せない。母親を見つめ助けを求めようとするが、母親は少し目を細め、わずかにうなずくだけだった。育子には母親が何を言いたいのか直ぐにわかった。 我慢するのよ。あなたは吉沢家の後をついでゆくのだから……。  その言葉を幾度となく育子は聞いていた。 私は家のために生まれてきたわけじゃない!なぜ私の好きにやれないの! 味方になってくれない母さんが悲しかった。私は耐えるしかないの! と思うのだった。 雅と遊んだことが思い出される。転校なんかしたくない。大声を出して両親に反抗してみたかった。でもそんなことは言えない。目頭が熱くなる。涙があふれるのをぐっとこらえて父親にうなずいてしまう育子であった。 話は、あっという間に進んでいった。一月後、育子は名門大学の付属小学校に転校することに決まった。 クラスの女子達にも雅にも転校することを育子は言えないでいた。父親がこの学校がだめだと言うからなんて、とても言えない。そうじゃないことを育子が一番知っていたからだ。女子達は守ってくれる。雅といると楽しい。先生もみんなを見てくれている。離れたくない。みんなと一緒に過ごしたい。そう思っているうち、別れの時はすぐにやって来た。 転校してきたときと同じように、育子は教壇の上に立っていた。 「短い間でしたが、大変お世話になりました。ほんとに楽しかったです」 来たときと同じ笑顔で育子は頭を下げた。突然のことに教室にいる全員からため息が出た。  雅は瞬きもせず育ちゃんを見つめていた。先生が育ちゃんを連れて教室から出て行く。育ちゃんの視線が雅の視線と合うことはなかった。 雅の心の中で思いっきり膨らんだ風船がバンッ! と破裂した。ポカンとおなかの中に穴が空いたようで全く力が入らない。育ちゃんの笑顔が頭の中にいつも浮かんできて、いっしょに遊んだことを思い出せば目頭が熱くなる。こんな経験は初めてだった。しばらくの間は、メンタルをすっかりやられていた雅である。 ところが、子供の成長する力は半端ない。流れる月日がすべてを解決してくれた。数ケ月も経つと元気を取り戻し、長屋の子供達とやんちゃな遊びを繰り返すようになっていた。 時は巡り、雅が小学校六年生になったある図画の授業でのことだ。 先生から、 「君たちも、もう六年生だ。この学校で一番心に残った出来事を一枚の絵にしてくれ。おもいっきり気持ちを込めてな!」 と、課題が出たのだ。相変わらずやる気のない雅だったが、先生の「気持ちを込めてな」という言葉が琴線に触れた。 雅は若草山の出来事を思い出したのだ。あの時、育ちゃんが絵に残しておきたいと言った言葉を思い出したのだ。 よし、描いてみよう! 雅のやる気に火がついた。あの時、育ちゃんに対してドキドキした気持ちを込めて、生駒山の稜線がはっきり見える澄んだ青空を思い出しながら雅は普段にない気合いで絵を描いた。 出来あがった絵の評判は良かった。なんと、市のコンクールで金賞を受賞したのだ。 奈良の餅飯殿商店街のショーウインドウーに展示されることになったのである。滅多にない快挙に先生も雅のおかんも驚いた。  そのとき、育ちゃんは奈良○○女子大学の附属小学校に通い、すっかり学校に馴染んでいた。前の学校のことは時間の流れの中で記憶の奥底に沈んでいた。 ある日のこと、お母さんと一緒に餅飯殿商店街に出かけたときだ。商店街のショーウインドウーに展示されている絵を母さんが見て言った。 「あら、前にいた小学校の子が金賞取ったみたいよ」 絵を指さして育子に教えた。 金賞の絵は、澄んだ青空の下に広がる奈良市内の景色が細やかに描かれていた。 「あっ!」 作者の名前を見なくても育ちゃんにはわかった。あの時、若草山から見た景色だ。にわかに雅との懐かしい思い出がこみ上げてきた。 それと同時に、雅に対してキュンとする胸の痛みも感じたのであった。   長い間、育子はじっとその絵をみつめていた。 (了)
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