小さい恋の物語

1/6
前へ
/6ページ
次へ
         小さい恋の物語  一 昭和四十年夏、奈良公園がすぐ傍の小学校に通う山中雅は、小学五年の夏休み最後の日を迎えていた。夕食の後、蒸し暑い家の中でいつものようにテレビにかじりついている。 「雅、あんたテレビばっかり見てるけど、宿題終わったんか?」 おかんが心配して聞いた。 「もう終わったで」 雅は涼しい顔で答える。計算ドリルに漢字ドリル、自由研究、何一つ出来ていない。しかし気にならない。雅の家の周りに住む仲間達がみんな雅のように宿題をやっていないからだ。明日から学校が始まるというのに……。 雅の住んでいる家は、古都奈良のイメージをそのまま描いたような古い長屋だ。そこに母親と二人で暮らしている。長屋は、六畳二間の部屋に小さな台所がついただけ、便所は共同で風呂はない。 父親は雅が小学校に入る前に出ていった。 ギャンブル好きで借金を作って逃げたという噂だ。雅の記憶の中には、「勝負するぞ」と口走る父親のイメージが残っている。 家の暮らしは生活保護とおかんの内職頼み。その中から父親の残した借金も返していた。 古い汚い家に住んでいるけれど、雅は不幸だと思わない。周りの長屋に住む子供達がここで同じような生活をしていたからだ。 それどころか、この長屋は雅にとって最高に面白い場所であったのだ。 売れない焼き芋屋の露天商、ヤクザな大工、変な宗教にはまっている家、個性ある家庭の子供達が揃っていた。その子供達が学校から帰ってくると長屋の前の空き地で遊びだす。しつけ、勉強、塾、習い事、子供を拘束するすべてのことに無関係の子供達だ。自由な時間がありすぎてやることが派手だった。 爆竹の火薬を集めて爆発させたり、パチンコで石を飛ばし合ったり、井戸に石を投げ入れたり、野良犬の顔に落書きしたり、学校のクラス仲間では絶対やらないようなハラハラドキドキする遊びばかりやっていた。 トラブルは多いがそれが最高の面白い。雅はクラス仲間と遊ぶより近所の仲間達と遊ぶ方がずっと面白かったのだ。 荒くれた子供達との遊びは雅のメンタルを鍛えていく。ただ、ここにいては経験のできないメンタルが一つあった。それが恋である。雅はまだ女子を好きになったことがない。 一夜が明けた。雅は眠い目をこすり、ふーっとため息まじりの息をはく。 「行ってくるわぁ……」 朝から吹き出すような暑さの中、雅は学校に向かったのである。  
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加