1人が本棚に入れています
本棚に追加
『龍』という生き物に、綴うらうら、幾千、幾万、幾億通りもの物語がある理由を、考えたことがあるだろうか。
姿が異形のそれだから?
天変地異を何かと所為だと逃げたかったから?
人の生活の裏側で、生きていてほしいと願われたから?
神に類する神秘を持つと信じられたから?
「全部だよッ!!!!!」
そう咆哮をあげ、一頭の龍は雲を纏い、夜空が見えるその先へと目にもとまらぬ速さで駆け上がっていた。龍の体は勢いを殺さぬまま、成層圏にへと到達する。周囲、-50度の極寒。雲はほとんど氷晶となり、対流圏に置いてけぼりとなっていた。
縦に天高く伸びた雲を見て、その中で発生した雷の瞬きを見て、人々は時にそれを龍と呼び、畏怖し、崇めていたという事実も最早過去の話。独自の道理に当てはめて、安心しきった様でいるのを見ると、実に滑稽なことである。解明できないことについては見ない、視界に入れない、映さないという徹底ぶりは昔からたいして変わっていない。極稀に産まれる神秘を目に写す者が、神秘を目に写さぬ者の言葉を借りて伝えただけの道理を、神秘を詳らかにしたと鼻の穴を膨らませて喜んでいる。
今だ、自らは神秘の掌の上であるということなど気づかずに。
(はて、これも神の戯れの一環か?)
神がデザインしたと言うなら、神に都合の悪いことには一切触れないでいる辺り、かなり納得がいく。巨大な龍は雲を真下に見下ろしながら、胴と同じほどに長い髭を宙に揺らして首をひねった。地上では、雲から落ちた雪が水となり、雨になっている頃だろう。
(だとすりゃ、一部神のそういう所が気に食わねぇな)
太陽と月が共存する昼夜の無い成層圏にて龍は体をうねらせると、地上へと緩やかに降下する。己がつくった分厚い雲を抜けきると、優しく降り注ぐ雨が龍自らの鱗を濡らした。眼下に広がる、人間が手にした電流の輝きが濡れた鱗を艶めかせるが、当然、年末の雨を恨めし気に見上げる人々の目に映ることはない。
「…さてぇ、行くか」
呻くような声をあげ、龍はその場で雨や風そのものとなると、夜の空から姿を消した。
〇
山の葉を揺らし、静かに落ちた雫の中に、先ほどの龍がいた。山一つ喰らってしまえそうなほど巨大な口も、暴れれば街一つ簡単に壊滅させてしまえそうなほどの巨大な胴もそこにはなく、1人、背の高い筋肉質な男だけが、雨に体を濡らしている。
「ッチ、相変わらずせせこましい体だなァまったく」
肩を一つ大きくぐるりと回してみると、たまたま背面にあった巨木に肘が当たり、接触した先から幹に大きな亀裂が入る。人里では、あたかも雷が落ちたかのような音が響いたことだろう。
「おっと、悪ぃな気が付かなかった」
龍は巨木に向き直ると、肩を叩くような感覚で幹に手を置いたのだが、それが巨木にとってのトドメとなってしまったらしく、巨木はその場で他の木々諸共倒れてしまった。
「っと…、力加減がちと分からなくてなぁ、まぁこの龍に倒されたんだから誉としておけ?」
巨木からすればたまったものではないが、龍は悪びれた様子もなく、腰に備えていた瓢箪の蓋を開け中の酒を巨木の幹へと回しかけると、もう忘れたと言わんばかりに背を向け飄々と歩き出した。
十二支の仕事とは、天上に住む四季神の力を過不足なく地上に降ろす、いわば仲介係のようなものである。降ろした力が地上でどのような効果を発揮するのかと問われれば、ただ満たすのだと応えよう。神々の神秘に満たされながら息づく生命たちを支える、一端であるのだと。
「まったく、それにしても一年拘束とは厄介なことだ」
雨を、風を、雷を、好きにできる龍にとっては自らの神秘が影響を与えることなど特別じみた話でもない。何なら日々やっている仕事に、十二支という特別業務が加わっているという感覚だ。
それでも『龍』が『辰』と成る時どこか楽しそうなのは、普段会えぬ者たちと、言葉を交わすことが出来るから。
龍である時は風になびいて自然と後ろに撫でつけられるたてがみも、人の形をとると長く鬱陶しい前髪になるのを無造作にかき上げ、牙をのぞかせ不敵に笑む。
「11年ぶりに戯れてやるか」
白い生地に紅の刺繍が施された着流しから腕を抜き、酒をグイッと飲み干すと一歩、また一歩と雪降り積もる世界にへと足を踏み入れる。そこは既に、振り返っても雪原しか広がらない平野にへと姿を変えていた。
この四季神が編んだ神域こそが、十二支が十二支として仕事をする空間である。四季神の名の通り、この神域は季節ごとに姿を変える。現世の人間が思い描く季節感の、数十倍も美しく出力される四季折々の景色を楽しむことが出来る世界だが、娯楽、と呼べるものは一切なく、世界の中心に大樹が一本生えているだけのため、十二支は一年、大樹の下でただ景色を眺めて過ごすか、寝るか、大樹に話しかけるかなどして暇をつぶすしかない。神域に入ってすぐ、遠くの方に大樹が見える。飛んでいければ楽なのにと心中で悪態をつきながら、辰は、酒の湧き出る瓢箪片手に卯のいる元へと歩みを進めた。
「誰かと思えばウゥじゃねえか、元気にしてたかァ?」
「誰かと拝察されずとも、卯に決まっているでしょう」
「相変わらずの面倒くさい喋り方だなァ」
黒真珠のような瞳に、月の光を湛えたような光輪が浮かぶ卯の眼は相変わらず奇怪で面白い。長く顎の辺りまで伸びた獣の耳も引っ張ってやりたくなる魅力がある。欲望のままに、辰は卯の耳に手を伸ばした。
「どうだ、さぞ暇だっただろ?」
「いいえ、月ほどではなかった。辰こそ、ご壮健であられたか」
「わしが全快で無かったことなど一度もねェだろ」
「おっしゃる通り…、コラ、触れるな」
卯は辰の指先を半歩下がってひらりと躱すと、警戒した目つきで睨みつける。
「お忘れになられた訳ではないだろう、前回卯の頭に手を置こうとして卯の頭蓋をカチ割った事を」
「んぁ?そうだったかァ?忘れたな」
「いくら不死身の我が身と言えど痛覚は残っている。ご勘弁頂くぞ」
「別に血肉が散るのも一興故わしは構わんぞ」
目を細めて挑発的に笑う男の顔は、現世に下りても実に好感を持ってもらえるほどの色男に映るだろう。もっとも、現在は龍と称するにふさわしい角が額に二本生えているので、すぐに人外であるとばれてしまうだろうが。
「…あくまでも年の瀬だというのに何を仰ってるんだこの神獣は…、寅といい辰といい、どうして卯の隣り合いはこう血の気が多い…」
「わしの隣り合いは辛気臭い顔のやつばかりで実に面白いがな!」
大きく笑って瓢箪を振ると、卯の頭の上で逆さに向ける。中に入っていた酒は、重力に従って卯の頭に浴びせかけられた。
「…虐めでは…?」
「これをして流石に歯向かってくるのがミィだ。…いや、あいつの場合酔うのが先かァ?」
「巳殿も今から気が重たくて仕方がなくいらっしゃるだろうな…」
髪から滴る酒を舌先で舐めてみる。龍の酒など、月に持って帰れば確実に堕落をうむであろう美酒である。甘くて、辛くて、全身に力が巡るのは気のせいではなく、龍の力を持って百薬の長を実現したものだ。
「辰殿、今度この酒を少し分けてはくれないか」
「がっはっは、かまわんぞ?何なら樽ごと持っていくかァ?」
「いいや、少しで構いませぬ」
卯が口角を緩めて小さく笑うのを見て、辰は卯の背中を強くはたいた。
「ゲホッ!」
肺の中の空気がすべて押し出され思わず咳き込む。辰はというと、自身の掌を結んでは開き、少し不満げに唇を尖らせた。
「かなり馴染んできたか、つまらん」
「馴染んでこられたようで何よりですよ…!!」
涙目になって辰を睨む卯を見下すように微笑んだ辰は、今度こそ耳の先を柔くつまんで引っ張り言った。
「次は月に出向いてやるから、歓迎の準備をしておけよォ」
「…ぐっ、酒の恩という訳ですか。お来しになれるというなら来てみろってんですよ」
「ふはははッ!いいだろう!」
挑戦的に横目で卯の顔を見つめ、牙をみせて大口で笑う。生物の心をつかむのに長けた獣というのはそれだけで性質が悪い。全生物の期待も、希望も、全てを乗せて、この獣は空を舞い続けるのだろう。
「辰殿、そろそろ鐘が鳴ります」
「もうそんな頃合いかァ?」
年度が入れ替わる時がくる。そうなれば、この場に滞在できるのは辰のみとなり、一年を神使として過ごすのだ。
「ウゥ、今度またわしが面白い祭りを見つけた日には、必ず月より参陣しろよォ?でなけりゃ今度は月ごと破壊だ」
「…例の徒競走並みの大騒動であれば、勿論月も口出しせずにはいられませぬでしょうし、結果的には行くことになりますよ」
話しているうちに、どことも繋がらない大樹一本ある雪原中に、どこからともない重厚な、重い鐘の音が響き渡る。聞けば心身が静まり返り、煩悩すらも忘れ去るとうたわれる鐘の音を聞きながら、辰は膝を打って大声で笑った。
「では!!次の宴を楽しみに待っておけ!!!」
「えぇ、貴方が解き放たれる日を畏れてお待ちしております」
そう言って、兎は自らの掌で生み出した赤い炎を身にまとい、煙となって姿を消した。煙が最後まで消えてなくなるのを見届けて、辰は伸びをしその場にごろりと寝転がる。
酒は卯の体を痛みなく焼いただろうかなどと考えながら、空になった瓢箪を振ってにたりと笑った。
「さァ、わしによく見せてみろ」
龍の時には見えぬもの、辰の時にしか見れぬもの。
「わしがよくよく見ていてやろう」
大きく開いた口の奥に、新たに湧き出た神酒が落ちた。
最初のコメントを投稿しよう!