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1.セルフうどんライジング
♢ ♢ ♢
――2023年7月23日
私もついに伝説のアーティスト、メイルが立ったこのステージに立った。
ほら、見てよ。元気出してまた歌ってよ。
親孝行になるかはわからないけれど、それでも届いてくれたらいいなこの歌が……。
大観衆を前に思わず感情が高ぶった。涙が溢れてきそうだったが、観衆はそんなもの求めていないだろうから、
「さあ! 盛り上がっていくよー!」と私がマイク片手に拳を突き上げると割れんばかりの大歓声が上がった。
少しずつ自分の中の大切なものが剥がれ落ちていく感覚だった。
♢ ♢ ♢
「五十嵐部長、今日も外食ですか?」
昼過ぎ、俺がラップトップを畳んでデスクから立ち上がるのを見計らって、いつものようにメシをたかってくるこいつは姫原サクヨウ。
株式会社サガラ商事始まって以来、初の女営業だ。時代だな。ついに小さい商社で万年人材不足の自社でも男女の垣根がなくなってきている。
新米の営業は部長直々に約一年間指導する。つまり俺が姫原指導係ということだ。
うちみたいな堅苦しい商社の営業マンというより、髪こそ清潔な黒だが保険営業のネエちゃんって感じ。野郎ばかりのむさくるしい部署だからこいつは周りからチヤホヤされて可愛がられている。
かといって部長たる俺はこいつを特別扱いなんてしない……のだが、
「オッケー五十嵐部長!」
俺がうどんを食いに行くと言えばこう返してくる。
いやオッケーってなんだよ! お前の同意なんぞ求めていないし、こいつまた昼めし代浮かせようとしてやがんな。
普通のおっさんなら喜んでめしにでも連れていくのだろうが、俺は違う。ただの部下の一人。
お前に食わすうどんなんぞ、シュレッダーにかけたそれで腹でも満たしておけ。と言いたいところだが、いいおっさんが部下のひとりに昼飯すら奢らないケチな上司と思われてもメンツがたたん。
姫原は今まで指導してきた新人と比較しても変わりものという印象、今のところ仕事ぶりは並。仕事ができるわけでもなく、特段無能というわけでもない。
ただ、やけに馴れ馴れしいというか、俺に向かって生意気だ。
俺、部長なんだが? あれ、部長ってそんなに偉くないんだっけ。そうこっちが錯覚しそうになるほどこいつは俺のことを友達か何かと勘違いしている。
「姫原、あのなー」
俺はため息交じりに続ける。
「一応目上の人には節度ある態度で接しないと失礼だろ」
「え、私社長とか、なんなら課長とかにはしっかり敬語だし、いつも礼儀正しいって褒められますよ、でへへ」
「お前なー、俺は課長よりも上! 部長でお前よりずっと目上だぞ」
「知ってます」えっへんと付け加えて聞こえてきそうな勢い。
しかしなぜいつもこう誇らしげに言うのだろうか。お前の矜持の所在は宇宙にでもあるのか。
「だったら俺にはなんでそんな生意気なんだ?」
「さあ、感覚的なものです」
「動物的に俺が格下と、お前の本能がそうさせてるとでも?」
こんな小娘になめられるなんて、俺も落ちたもんだよ。まったく。
もはや怒りの感情はない。あきれ。
「いや違くて、同じ薫香がするというか」
姫原の感性は常人を逸している。いくらか教育していればなんとなくその世間とのズレを持つ姫原の性格は理解できていた。
「薫香? お前から加齢臭でもするってか」
「部長ゆってもまだ三九歳でしょ! というかそんなセクハラチックな意味じゃなくて、同じような人となりを感じられるってことですよ」
「そうか、俺はそんな風に感じないけどな」
教育的指導をしつつも、こいつは怯むことなくうどんを食べに行く気満々の姿勢を崩さない。
俺は観念して会社近くのセルフうどん屋に向かう。なんならわざと早歩きで。
それにも臆することなく俺の斜め後ろから小走り気味に付いて来るが、店先の駐車場までズラリと続く行列に並ぶ頃には、か細いスタイルの姫原はゼエゼエと息を切らし、ひたいには汗でいくらか髪がくっついていた。
「五十嵐部長! めちゃくちゃ行列してますけど昼休み間に合いますか?」
「まあ黙って並んでろ」
最後尾に並んでいた行列もみるみる縮まり、まもなく店頭の入り口というところ、
「ぬー♪ぬぬー♪ぬぬー……」
「……」
……鼻歌、にしては音量でかめ。ってか『ぬ』で鼻歌歌うやつ初めて見たわ。
「おい姫原! 黙って並んでろって言ったが、まあそれは大目に見てもだな……ぬってなんだ、ぬ、って」
「ああすいません。ぬ、が好きで」
「ぬ、が好きってなんだよ」
やっぱりこいつの感性にはついていけない。
「ほらっ」と姫原は自分の指先で空中に『ぬ』と描いて「ほら、なんかダンゴムシが這っているみたいで可愛いでしょ?」と言った。
俺は頭の中で『ぬ』の文字を思い浮かべてみるけれど、ダンゴムシには到底見えない。と、ツッコミたかったがなんとなくわかってしまう、わからなくも……ない。絶妙なライン。この敗北感を隠すように黙った。
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