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序章
濃紺の夜空には、青白い大きな満月が皓々と照り、数多の星々が散り輝いている。
月に導かれるように、あるいは夜空の星のうちの一部になるかのように、目の前の少女からは純白の光が溢れ、空へと昇っていく。
この美しく幻想的な光景は、皮肉にも妖が消滅するときのそれだった。
少女の側に膝をついた青年は焦りと恐怖を必死に抑え込み、震えかける左手で懐から和紙でできた人形を取り出し、少女の額をさっと撫でる。
少女の顔に生気はなく、苦悶の表情を浮かべるでも安楽の表情を浮かべるでもなく、まるで精緻な人形のようだった。反応がないどころか呼吸しているかも定かではない。
それでも青年は少女の命をつなぐことを決して止めようとはしなかった。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
一言一句に気をこめて九字を唱えながら右手で手刀を切る。
「一心奉請、東神青龍、南神朱雀、中央神麒麟、西神白虎、北神玄武」
青年は透った声で朗々と歌い上げるように祈祷文を紡いでいく。
「一心奉請、東神青龍、南神朱雀、中央神麒麟、西神白虎、北神玄武。一心奉請、東神青龍、南神朱雀、中央神麒麟、西神白虎、北神玄武。急々如律令」
少女の四肢の先から立ち昇る純白の光は、徐々に少女の手足を奪っていく。
(大丈夫。まだ間に合う。今やるべきことに集中しろ)
「依代を以て其の身の邪気を祓い給え」
左手に持った人形に意識を集中させながら、丁寧に祈禱文を唱えていく。
「水生木大吉、祈願円満。木火土金水の神霊・厳の御霊を幸え給え。木生火大吉、祈願円満。火生土大吉、円満成就。土生金大吉、円満成就。金生水大吉、円満成就」
長くはない祈禱文の終わりが見えてくるが気は抜かない。きんと冷えた夜気をすっと胸に吸い込み、青年は一息に唱える。
「冀くば祈主渡良瀬紫苑、心上護神、除災与楽、胸霧自消、心月澄明、祈願円満、円満成就。急々如律令」
(どうかこの想いが聞き届けられますように……!)
ただひたすらにそれだけを願う。
少女の存在が青年にとっての希望で、慎ましやかながらも確かな幸せだった。
もう奪われたくない。失いたくない。
青年は一心に祈り、締めである送神のための祈祷文を奏上した。
「一心奉送上所請、一切尊神、一切霊等、各々本宮に還り給え、向後請じ奉らば、即ち慈悲捨てず、急に須く光降を垂れ給え」
青年は祈祷文を唱え終えると、袂から霊符を取り出した。
「業邪焼払、急々如律令」
白い光が閃くと霊符は消え、代わりに左手中にあった人形から真っ赤な火が燃え上がった。熱さはなく火傷をすることもないが、穢れを移した人形だけが炭すら残さず焼け消えていく。
人形が焼き払われるのを見届けた青年は引き絞った切ない声で「美桜……っ」と呟くと、少女へと視線を滑らせた。
少女から天へと昇っていた純白の光がふわふわと舞い戻ってきて、消えかけていた四肢を包み込む。柔らかな光があたりに散ると、少女の手足は元に戻り、僅かに胸が上下し始めた。
「生き、てる……」
少しでも解呪が遅れていれば、純白の光は少女の全てを攫っていっただろう。一刻を争う事態に青年ができるのはここまでだった。後は少女の生命力と医療班の力量次第だろう。
解呪には霊力と体力を大きく消費する。呪いの中でも特に厄介な呪詛、それも末期のものを完璧なまでに解呪した青年はすぐに動くことができずにいた。
だから青年は医療班か自称相棒が自分たちを見つけるまで、少女の顔をじっと見つめることにした。
少女に生きていてほしいというのは紛れもない青年の本心だ。
(だけど……)
見つめる少女の表情は心なしか苦しげなように見える。
(この選択は、本当に正しかった?)
この願いは青年の独り善がりのわがままで、少女は露ほども望んでいないかもしれない。もしかしたらどうしてと責められるかもしれない、恨まれるかもしれない。それでも青年は少女の命をつなぎとめたかった。例えこれが正しくない選択だとしても。
二人寄り添って、笑い合える未来を信じたいから。
二人の行く先を照らすように、月の冷たく優しい光が彼らに降り注いでいた。
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