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それから数日後のことである。
紫苑とともに早朝に起きだした夜桜は、土間でひとり朝食の用意をしていた。
家事を教えてもらったのは数日前だが、記憶を失う以前には掃除だけでなく料理もよくしていたのだろう。そう思うくらいには手際が良く、紫苑からのお墨付きをもらってこの場を任されているのだった。
その紫苑はといえば、庭で洗濯物を洗い、干しているところだ。
弥生の中旬とはいえ今時分はまだ陽は昇ったばかりで空気が温まっていないため、外にいれば体も冷えるだろう。戻ってくる紫苑のためにも出来立てで美味しいものを食べてもらいたい。
小鉢を一品作り、湯気の立つ味噌汁を添え、炊いたばかりの白米を茶碗によそう。豪華ではないが紫苑は食事に頓着する質でもないし、夜桜もどちらかといえば小食なのでこれくらいがちょうどよかった。
居間の円卓に朝食を並べる前に、夜桜は土間にある勝手口から庭に出た。
澄み渡る空の下、庭では洗濯物を干し終えたのか、花に水をくれている紫苑の後ろ姿があった。
「紫苑さん、朝食ができました」
決して大きな声ではなくとも紫苑にはちゃんと夜桜の声が届いたようで、彼はぱっと振り向いた。
「ありがとう。今行くね」
夜桜は頷くと土間に戻って、出来上がった料理を居間へ運んだ。
紫苑が居間に顔を出すのと、夜桜が朝食の支度を完了させるのはほとんど同じときだった。二人は円卓を囲んで、手を合わせ、食事を始める。
夜桜も紫苑も口数が多い方ではないため、食事時は大抵静かだ。しかし、今日は珍しいことに紫苑が口を開いた。
「あなたさえ良ければなんだけど……。今日は仕事が休みだし、天気もいいから一緒に町へ出かけない?」
思ってもみない申し出に夜桜は目を瞬かせる。
「町、ですか?」
「うん、どうかな」
町とはここから少し離れたところにある人と店の活気に溢れた場所だと聞いている。
夜桜は紫苑以外の人というと楓くらいにしか会ったことがないので、人が多いという町へいくことにやや不安はあった。けれどもどんな光景なのか実際に目にしてみたい好奇心が勝る。それに紫苑が一緒にいてくれるなら大丈夫そうな気がした。
「行ってみたいです」
夜桜が答えると、紫苑はわかったと言うように頷いた。
家で家事をこなすには木綿の着物の方が都合がいいが、せっかく町へ出かけるのならばと夜桜は先日紫苑から贈ってもらった薄紅色の着物に着替えることにした。
おかしなところがないか首を巡らせ、確認して、夜桜は部屋を出た。
「お待たせしました」
居間に行くと、書を読んでいた紫苑が顔を上げた。
「うん。やっぱりよく似合ってる」
紫苑は目を細め、優しげに微笑む。そうして閉じた書を卓上に置くとすっと立ち上がった。
「戸締りは確認してあるし、行こうか」
「あ、はい」
夜桜は紫苑に続いて玄関を出る。紫苑が玄関の鍵を閉めたところで、彼は思い出したように「……あ」と小さく声をあげた。
「そういえば、あなたは変化できる?」
「あぁ、そういえばそうですね」
この国では人間社会に関わらない妖も多いが、人間に紛れて生活している妖も一定数いる。そういった妖は基本的に人間姿に化けて、ほとんど人間と変わらない生活を送っている。
夜桜はなぜか特に気にも留めず本来の姿である半人半狐のままでいたので、それが当たり前になりつつあった紫苑もすっかり忘れていたのだろう。
夜桜の白銀の髪と赤い瞳はたいそう目立つ。それは人の多い町中であっても、否、却って人の多い町中だからこそ殊更に人々の目を引くことだろう。加えて夜桜が妖だと知れれば何が起こるか予想がつかない。
それらの事情を鑑みれば、夜桜も変化することに抵抗はなかった。瞬きの後、夜桜の姿は亜麻色の髪と瞳を持つ人間の少女の姿に変わっていた。
「これで良いでしょうか?」
「……」
「紫苑さん?」
「え? あ、うん……。大丈夫、ちゃんと変化できてるよ」
はっとした様子で紫苑は夜桜に答えると「それじゃあ行こうか」と言ってゆっくりと歩き出した。夜桜も彼の隣に並んでそろそろと歩を進める。
家を出て竹林を抜けると、視界が拓けて幾面もの畑が現れた。畑にはじゃがいもやかぶ、きゃべつなど春の野菜が植わっている。あぜ道を彩るのはおおばこや薺、仏の座など春の草花だった。
「わあ……」
春の柔らかな風に乗って、土の香りが運ばれてくる。広い空は薄青で、白の薄雲がたなびいていた。野菜の葉の緑は濃く、点々と生えている草花はいきいきと色とりどりの花を咲かせている。素朴な光景の中に確かな生命の輝きが満ちていた。
それまでおっかなびっくりといった足取りの夜桜だったが、この景色を前にしたら顔を明るくし、僅かに頬を朱に染めていた。紫苑の見間違いでなければ亜麻色の瞳も輝いているようだった。
「楽しそうで良かった」
紫苑に指摘されて、夜桜はこの感情が『楽しい』と呼ばれるものだと理解した。
この半月ほどで夜桜は様々な感情を知っていったが、まだまだ新たな発見があるものだと思う。
(町へ着いたら、また新しい感情を知ることができるかしら)
景色をゆっくりと眺めながら、ときおり足元の草花に足を止めながら、夜桜は町へと続くあぜ道を歩いた。そんな夜桜を紫苑は優しく見守っていた。
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