第二話 本当の居場所

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 名前を呼ばれ振り返ると、そこには面識のない青年がいた。  困惑に目を瞬かせる夜桜を置いて、青年は明るい調子でまくしたてる。 「やっぱりそうだ! おまえ、生きてたんだな。主様がお探ししてるってのに今まで一体どこにいたんだよ?」  夜桜は無意識に胸の前で右手を握りこみ、一歩後退った。  目の前の青年が誰だかは知らないが、明るく気安い態度とは裏腹に、彼には隙がなく、目が笑っていない。  頭の中で警鐘が鳴り響き、ずきずきと痛み出す。 (に、逃げなきゃ……)  そう思うのに、足は地面に縫いとめられたかのように動かない。  その間にも青年はひとりで話し続けていた。 「おまえがいなくなってから夜の番が俺たちにも回ってきちまってよ。みんな朝な夕なに戦いっぱなしだよ。全然休めねぇ」 「……」 「でも、こうして夜桜が見つかったんだ。主様もきっとお喜びくださるだろうさ。とっとと戻ろうぜ」 「……」  夜桜は硬い表情で青年を見つめ返すことしかできなかった。 (生きてた? 主様? 戦う?)  混乱する思考のまま夜桜がなんとか口にしたのは「誰、ですか?」の一言だった。 すると青年はぽかんと間の抜けた表情をした。 「まさか憶えてねぇの?」 「……あなたは、私のことを知っているのですか」 「おいおい、嘘だろ。憶えてねぇって、どこまでだよ?」 「……何も。『夜桜』という名前くらいしかわかりません」  緊張にか恐怖にか自分でも定かではないけれど、夜桜の声は硬質なものだった。 青年はその夜桜の様子に目を丸くして、それからくつくつと喉の奥で笑い出す。それは面白がっているというよりも嘲りを含んだものに近い笑いだった。 「まさか本名が『夜桜』だと思ってんのか?」 「……え?」  だって記憶を見たのだ。そこでは確かに自分を見た誰かが『夜桜』と口にしていたではないか。……畏怖した表情とともに。 (そうだわ。なぜ私を見て怖がっていたのかしら……)  背に嫌な汗が伝う。頭痛はがんがんと打ちつけるような痛みに変わっていた。  これ以上青年の話に耳を傾けてはいけない。けれど相反する思いもある。真実を知らなければならないと。 「おまえの本当の名前は『神遣美桜』。またの名を妖殺しの『夜桜』……ってな?」 「……っぅ‼」  その瞬間、まるで雷に打たれたかのような激痛が脳内に走った。  鬼神か修羅のごとく妖を屠る。まるで舞い踊る桜の花びらのように、美桜は短刀片手に宙を舞った。白銀の髪が月光を反射し、きらきらと輝いていた。 気づけば美桜の周囲には数えきれないほどの屍が転がっていて、それぞれから白い光が立ち昇っていた。美桜の右手が握っている短刀の刃からは妖の血が滴り落ち、地面に落ちる前に白い光となり消えていく。同じようにして美桜の白い頬と緋袴に付いた返り血も白い光となる。これだけの数を相手にしておきながら、美桜には傷一つない。 光を宿さない虚ろな赤い瞳でゆらりと振り返ると、助太刀すればかえって足手まといになるとわかっていたからか同じ主に仕える式神たちが遠巻きに美桜を見ていた。そのうちの誰かが畏怖をこめて呟いた。 「あれが『夜桜』……」   「…………」 美桜は顔色を失くし、絶句した。 (そう、よ……。どうして忘れることなんてできていたの……?)  主に命じられるまま、妖を何体も何体も、数えきれないほど消滅させてきた。人間に仇なす、たったそれだけの理由で。確かに凶悪な妖は多かったが、果たして殺すことだけが解決のためのたったひとつの選択肢だったのだろうか。  俯きかけた美桜の頭に嘲笑が降ってくる。 「ははっ。もしかして記憶がないからって善人ぶってたのかよ。今にも泣き出しそうになって、今までの能面みたいな面はどうした?」  心を、殺してきた。 そうしなければ刃を振るえなかったから。 それが嫌で嫌でたまらなくて自死を試みたこともある。けれど死ぬよりも痛く辛く苦しい折檻が待っているだけで死なせてはもらえなかった。以来、美桜は徐々に心をすり減らしながらも生き続けるしかなく、生きる以上は主の命令に忠実でなければならなかった。 (私は保身のために、妖を手にかけ続けてきた。私は半分は人間だけれどもう半分は妖で……、だというのに同族の妖の命を、殺めて……)  生き続けて、しまっている。 それも自らの犯した罪を忘れて、穏やかな日々に浸って、のうのうと。 人間社会の法に照らし合わせれば妖を殺したところで罪には問われない。そうだとしても美桜は自分に対して言い尽くせない嫌悪感を抱いた。視界が涙で揺らぐのは吐き気を催したからか、自分がやってきたことへの後悔からか。 (私には泣く資格すら、ない)  力なくうなだれる美桜の顔から表情が抜け落ちていく。さらに愉しげに語る青年が美桜に追い打ちをかける。 「主様はお優しいからな。おまえが勝手に逃げ出したこと、許してくれるといいな?」  紫苑と再会してからの二月で少しずつ積み上げていた感情があっけなく崩れ去る。  言いがかりだと怒る気にもならなければ、連れ戻されそうなことに悲しさも覚えない。自分には何かを楽しいと思うことすら許されず、残った唯一の感情は抑えきれない恐怖だけだった。 「まあ、俺も主様ほどではないにせよ優しいからな。一緒に行ってとりなしてやるよ」 「……」 「おいって」  一言も言葉を発することができず立ち尽くす美桜にしびれを切らした青年が手を伸ばす。美桜の混乱していた思考が今度は恐怖に埋め尽くされた。 (嫌。怖い。気持ち悪い。……触らないで!)  青年の手を振り払わなければと思うのに、体はまるで言うことをきかない。伸ばされた青年の手が美桜の手首に触れる、その瞬間。
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