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「だから?」
しかし返ってきたのは淡々としたその一言のみ。
「……え……」
「はぁ? おまえも陰陽師なんだから『夜桜』を知ってるだろ?」
狐につままれたような顔で風雅が言い募るが、紫苑はほとんど無表情に近い顔をして言い放った。
「あなたやまわりがどう言おうと僕には関係ないし興味もない」
「紫苑……?」
美桜の呆然とした呟きに誘われるように、紫苑はふっと俯き加減の美桜を見た。
「僕にとっての真実は美桜の言ったことだけ。それ以外はどうだっていい」
紫苑は風雅に一瞥をくれると、呆気にとられている彼からは興味がなくなったかのようにさっと背を向けた。
「何もされてない? 怪我はしてない?」
「大、丈夫……」
先ほどとは打って変わって、美桜に向ける紫苑の声は彼女のよく知る優しいものだ。
紫苑は安心したように頷くと「今日はもう帰ろうか」と投げ打たれた薫衣草の鉢を拾い上げ、ゆっくりと歩き出す。美桜は足を踏み出したが二歩目で立ち止まった。
(帰る? 私は紫苑のもとに帰っていいの?)
心穏やかな日常に戻れるなら戻りたい。けれどそれは自分には赦されないことだと思う。
風雅は美桜の心の隙を見逃さなかった。
「ほらな。こいつだってわかってんだよ、帰るべき場所がさ」
紫苑はちらりと風雅を見たが、どうでもいいと言わんばかりに無視を決め込む。
「ねえ、美桜」
「……」
どんな顔をしたらいいのか、なんと答えたらいいのかわからず、美桜は再び俯くと黙り込んだ。それでも紫苑は美桜に語りかけることをやめない。
「美桜が今何を考えてるか、本当のところは僕にはわからない。美桜の口から真実を聞きたいとは思うけど、美桜が話したくないならそれでもいい」
「……」
「だけど、その代わりに一度きりでいいから僕のわがままにつきあってほしい。……美桜」
「……?」
場違いなほど柔らかな声で名前を呼ばれる。美桜はそろそろと視線だけで紫苑を見上げた。目が合うと、紫苑は少しだけ嬉しそうにして微笑んだ。
「どうか、僕に攫われて?」
「……っ!」
忌避される覚悟をしていた美桜にとって、紫苑のわがままはあまりに優しすぎるものだった。
『夜桜』が何を意味しているか分からないはずないのに、紫苑は美桜を傷つけずに、それでもなお一緒にいたいと言ってくれている。
紫苑と再会してからの二月で大事に丁寧に積み上げてきた感情は呆気なく崩れ去ったと思っていたのに、その欠片が手元に戻ってくるようだ。美桜に失った感情を教えてくれるのはいつだって紫苑だった。
気づけば揺らいでいた美桜の視界の向こう側に紫苑の手が映りこむ。伸ばされた紫苑の右手の指先がそっと美桜の左手に触れた。そこにはせり上がるような嫌悪感はなく、不思議とその手の温度は馴染み、美桜の心を落ち着かせた。『攫う』と言いながら、美桜の手をとる紫苑の力は決して強くなく、振り払おうと思えばすぐにでもできたが美桜はそうしなかった。
美桜が抵抗しないとわかると、紫苑は美桜の手を引いて家路につくべく歩き出した。
我に返った風雅が背後で吠える。
「黙って行かせると……」
「動静緊縛、急々如律令」
紫苑は素早く霊符を取り出すと半身で振り返り、風雅に向けて放った。霊符は過たず風雅に張り付く。動きを制限されたことで、風雅は声も発せないようだった。
紫苑はつまらなそうに風雅を見遣ってぼそりと呟いた。
「僕はむやみやたらに妖を傷つけたくない。だけど」
瞬間、紫苑の瞳が氷のように冷たくなる。
「美桜に害をなそうとするなら容赦しない。次は火傷程度で済ませない」
紫苑に鋭く睨まれた風雅は息をのみ、この場は去ることにしたようだ。人間姿から本性の烏の妖姿に変化すると弾き飛ばされた愛刀を回収して空の向こうへ飛んでいき、姿を消した。
紫苑はつないだ手はそのままに、何も言わずに歩を進める。美桜は紫苑の半歩後ろをついて歩き、ぼんやりと短く伸びた影を見つめていた。
紫苑の優しさをありがたく思う反面、自分には過ぎたものだと苦しくもある。胸の内でぐちゃぐちゃになり御しきれない感情が涙に変わる。
紫苑は振り返らないでいてくれたけれど、つながれた手の力がほんの僅かに強くなったような気がした。
いつもより重苦しい沈黙の中、二人はあぜ道を戻り、竹林を抜ける。間もなくして住み慣れた家が現れる。そこでつないでいた手がゆっくりと解かれた。
「……美桜」
心から心配してくれているのだろう紫苑の声に、美桜は顔を上げないままゆるゆると首を振った。今は紫苑のどんな言葉も聞きたくなかったし、自分には受け取れないと思った。
「……今だけは、ひとりにして」
蚊の鳴くような声で美桜が囁くと、少しの間の後、紫苑は「……うん」と答えて家の中に入っていった。
美桜は玄関から室内に入らず、直接、庭に出た。初夏を彩る花々が美桜を出迎えるが、あれだけ色彩豊かだと思っていた景色はどうしてだか白黒にしか見えない。花を目にすればいつだって優しい気持ちになれたのに、今は何も感じられなかった。
風雅をきっかけに記憶を思い出した直後は激しく動揺していた。紫苑が側にいてくれた時だけは泣くことができた。それなのにいざ一人になってみると、不気味なほど感情の波は立たず、拾い上げたと思っていた心の一欠片をも再び失くしてしまったような感覚に襲われた。
(まるで人でも妖でもない、別の何かのようだわ)
無表情のまま、美桜は内心で自分のことを嘲った。
自らの意思を殺して、命じられるままに妖を殺し続けてきた。自死は失敗し、死線に立っても傷一つ負わないで不運にも生き残ってしまった。こんなのは普通の人でも妖でもない、ただの化け物だ。
美桜はつと桜の木を見上げた。色鮮やかだったはずの葉の緑は、今や墨の濃淡のようにしか映らない。
美桜は無感情のまま庭に背を向けて、玄関の前に戻った。左に行けばそのまま家の中へ、右に行けば竹林の方へとつながる道に出る。
結局、美桜は左へ足を向けたが、それが優しい紫苑の心情を慮ってのことか、それとも紫苑のことはただの言い訳で美桜の醜い願望の顕れなのかははっきりしないままだった。
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