第二話 本当の居場所

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 主の名前は戸塚正博。陰陽省に所属する陰陽師で、式神使いとしてそこそこ名の知れた四〇代後半の男だった。陰陽省も一枚岩ではないため妖を式神として使役することに賛否両論あるが、戸塚は賛成派だった。彼は美しい半人半狐と噂される美桜のことを聞きつけて遠路はるばる拠点の西から美桜がいた東の方までやって来たという。そして適当な理由、美桜からすれば身に覚えのない濡れ衣とも言いがかりともいえる、をつけて、美桜を式神とするという当初の目的を果たしたのだった。  主従の契りの儀式が執り行われた、その日の夜から美桜は早くも命令を受けた。「あの妖を滅してこい」と真新しい短刀だけを投げつけられて。  相手は狼の妖だった。狼も必死で、警戒心を隠すことなく牙を剝き出しにして威嚇してくる。 (滅しろ、なんて。私にはそんなことできない……!)  戦いからは縁遠い暮らしを送ってきた半人半狐というだけのただの少女に、妖を殺すことなどできるはずもない。 狼の眼光の鋭さに美桜は怯えることしかできなかったが、狼の方はそれを隙だとみなしたらしく美桜に容赦なく飛びかかってくる。美桜ははっと我にかえって、とにかく死にたくない一心で本性の姿に戻った。運動能力と動体視力が飛躍的に向上し、すれすれのところで狼の牙を避ける。 (でも、でも。そうしないと私が殺される!) 狼の攻撃は止まない。再び覆いかかってきた狼に向かって半狂乱で「やめて!」と叫びながら、美桜はほとんど無意識のうちに右腕を振った。その手に短刀が握られていることも忘れて。 運が良かったのか、悪かったのか。 その一撃は狼の喉笛を切り裂いた。同時に美桜に生暖かい赤い雨が降り注ぐ。 「……え……?」  目いっぱい見開いた視界の先には、白い光に包まれて崩れ去る狼の姿があり、震えが収まらない自身の右手には真っ赤な血に塗れた短刀が握りこまれていた。 (わ、たしが……やったの……?)  殺すつもりなんてなかった。殺したくなかった。  ただ自分は死にたくなくて、この場で生き残るためには、殺すしかなかったのだ。  たとえ、そうだとしても……。 (私は、同族を殺した……っ!) 「いやあああああ!」 少女にとってはあまりに重すぎる罪で、惨たらしい現実でしかなかった。  白い光に囲まれながら美桜が慟哭していると、主である戸塚が歩み寄ってきた。美桜の涙で滲む視界でも、彼が場違いに上機嫌であることがうかがえる。その戸塚の態度が美桜の神経を逆なでした。 「何がっ! 何がそんなに愉しいのよっ!」  美桜がきっと睨み上げれば、次の瞬間、左の頬に熱い痛みが走った。戸塚に頬をぶたれたことに遅れて気がついた美桜は茫然自失とした。  あれだけ愉しそうに嗤っていたのに、今、美桜を見下ろす目はぞっとするほどに冷たい。 「わたしはおまえの主だ。言動には気をつけろと前にも言ったはずだが?」 「…………ごめん、なさい」  左頬を押さえ、震えながら謝る美桜を前に、戸塚はふんと鼻を鳴らしてから「まあ、今回は機嫌がいいから許すが」とにたりと嗤った。 「それにしてもよくやった。傷一つなく敵を斃すなんてな。美しい上に強いとは、これから重用してやろう」  喉元までせり上がった「嫌」という言葉を美桜は寸でのところで飲みこんだ。嫌で嫌でたまらなかったが、もし口にすればまたぶたれると予想した恐怖の方が勝った。 (ここで、死にたくなんかない。……紫苑に、会いたい……!)  彼のもとに帰って、また幸せと優しさに満ちた日常を紡ぎたい。 それだけを心の支えにして、美桜は提示されたたった一つの道へ足を踏み出した。それが想像以上の辛苦を伴う修羅の道だとは知らずに。  未の刻を報せる鐘の音で、美桜は目を覚ました。浅いとはいえ眠りについていたのにも関わらず、疲れがとれるどころか悪夢のせいでかえって疲労感が増していた。昼食の時間はとっくに過ぎ、食欲も湧かなければ作る気力もない。 (食事はもういいわ。……花に、水をあげないと)  美桜はよろけながら立ち上がって、縁側から庭に出た。眺めた庭の植物には昨日と同様、色がないように見える。陽が高く昇り、ほとんど雲がない空も鮮やかさに欠けていた。  半ばうわの空で水を撒く。 (『死にたくない』、『紫苑に会いたい』ね……)  当時の甘すぎる考えに美桜は内心で自嘲した。 (他者の命を奪っておきながら、自分だけは生きていたい? 最愛の人に向ける顔があると本気で思っていたの?)  自らの罪を忘れるなどあってはならない。自分だけがのうのうと生きるなど許されない。 (全ての罪を抱えて地獄に墜ちて裁かれる。それが私にできる唯一の贖罪なのに……)  それなのに今日という日もまた過ぎ去ろうとしている。美桜の陰鬱な気持ちなどとは全く関係なく、いっそ皮肉なまでに穏やかな時間がゆっくりと流れていった。
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