第一話 優しい日常

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それから間もなく眠りに落ちた夜桜が次に目覚めたのは、障子を透かして室内に射しこむ陽光が眩しさをさらに増したときだった。 今度は失敗することなく、一度で上体を起こせた。その拍子に額から手拭いが落ちる。拾ったそれはまだ冷たさを残していた。 どうやらあの後、紫苑は言葉通り夜桜の様子を見に来てくれたらしく、その時に生温くなっていた手拭いを替えてくれたのだろう。紫苑の甲斐甲斐しいまでの看病のおかげで、夜桜の熱も大分下がったのかもしれない。眠りにつく前の倦怠感はかなり緩和されていた。 時を報せる鐘の音が遠くから響く。鐘の数を数えて、夜桜は今が正午であることを知った。  鐘の音の余韻までもが空気に溶け去るのと同時に、襖が開いて紫苑が現れた。 「起きてたんだ」  夜桜は首を回して紫苑を仰ぎ見ると「はい、ついさっき」と頷いた。 「昼食を作ろうかと思って。食べられそうならあなたもどう?」  問われると夜桜は自分が空腹状態であったことに気づいた。 「なら……、いただいてもいいですか」 「うん、もちろん」  昼食ができたらまた来ると言って紫苑は部屋を出て行った。  再び静けさを取り戻した室内に、障子の向こうから小鳥の鳴く声と微かな葉擦れの音が聞こえてくる。物思いに耽っていると、次第にそれらの音も遠のいていった。  先の行動を決定するためには自分を知らなければならず、自分を知るためには自分を形づくる過去をも知らなければならない。  けれど記憶を取り戻そうとすると拒絶するかのように鋭い頭痛が襲ってきた。まるで記憶を失う前の夜桜が望んで記憶を失ったかのように。  自分探しをするならここにいたらいいと提案してくれた紫苑を裏切るのは気が引ける。であるならば、さほど興味がないとしても夜桜は自分のことや過去のことを知る努力をしなければならないと思うのだ。 (だけど、どうしたらいいのかしら)  先ほどは過去の記憶を見て名前を思い出せたが、それも偶然だろう。確実に記憶を取り戻すためには何をしたらいいのか見当もつかない。 (ねえ、過去の私。あなたは一体どんな人でどんな生き方をしてきて、一体何があって記憶を失ってしまったの?)  自分の中に眠っているだろうもう一人の自分に問いかけてみる。  しかし、答えが返ってくることは当然なかった。  そんなことをしているうちに、盆を手にした紫苑が戻ってきた。  紫苑は夜桜の側に膝をつくと、盆を畳に置きながら、ちらりと夜桜の顔をうかがった。 「何か考え事?」 「え、ええ……」  顔に出ていただろうか。しかし能面のような顔を動かした覚えはない。  紫苑はそれについては何を言うでもなく、夜桜に器を差し出した。中には湯気の立つ卵雑炊が盛られていた。 「はい。熱いから気をつけて」 「ありがとうございます」  手渡された木匙で雑炊を一口分すくい、息を吹きかけてから口に運んだ。卵の優しい甘みの奥に出汁の柔らかな香りが広がる。 「美味しい、です」  あたたかな料理が夜桜の氷のような心を溶かしていき、それは雪解け水のように涙に変わった。  左目からぽろりと一筋の涙が頬を伝う。  素朴な味わいは故郷を知らない夜桜に『懐かしさ』を教えた。すると同時に、新たな疑問が湧き出てくる。 (私の家族は、今どうしているのかしら)  しかし思考は霞がかったようにぼやけていき、それ以上わかることはなかった。  揺らぐ視界の向こうで紫苑は夜桜に手を伸ばそうとしたが、直前で躊躇って、結局手に持っていた清潔そうな手拭いを手渡すに留める。  夜桜はぎこちない手つきでそれを受け取ると涙を拭った。 「……何、考えてたの?」  紫苑の声は控えめな響きを帯びていた。  夜桜はぽつぽつと、紫苑の料理が失った記憶の中にある家族のものと似ているような気がしたことと、その家族は今どうしているのかが気にかかるということを話した。 「そこまではわかるのに、どうしたらちゃんと記憶を取り戻せるのかは、わからないままです……」  もともと小さな声をさらに小さくして、夜桜は僅かに視線を落とした。  しばらくの沈黙の後、紫苑の声が降ってきた。 「……傾向からして、記憶は普通に生活しているうちに戻ると思う。それに……」  紫苑は何かを言いかけたが、小さく頭を振り、続きを口にすることはなかった。 「とにかく、ゆっくりでいいよ」 「でも、これ以上紫苑さんに迷惑をかけられません……」  身を置いてもらえるだけ有難いのに、図々しく長居することなんてできない。  しかし夜桜の懸念をわかっているだろう上で、紫苑はこともなげに返す。 「それについては僕が持ち掛けた話だから遠慮しないでいい」 「……それに、返せるような対価を私は持っていないのに……」 「……だったら、ひとつだけ欲しいものがある」  夜桜はぱっと顔を上げた。  記憶もなければ、物もお金も持ち合わせていない。そんな夜桜に返せるものなどないはずなのに、紫苑はあると信じて疑わないかのように言い切る。  目と目が合う。  漆黒の瞳は強い光を宿し、惹きつけられた夜桜は瞬きすらできなかった。  呼吸さえ憚られる静寂に、紫苑の声がとんと落とされる。 「笑顔が、欲しい。それが僕にとってなによりの対価だよ」  もとより冗談を言うような質には思えないが、紫苑は真剣そのものだった。  こんな正体のわからない女の笑顔が欲しいなど、一体紫苑はどういうつもりなのだろう。  夜桜は問おうとして口を開きかけたが、結局言葉を紡ぐことなく口を閉ざしてしまった。  紫苑は夜桜を通して『誰か』を見ていて、深い葛藤を覗かせながらそれでもなお小さな微笑みを浮かべていた。夜桜ですら痛々しいと思うような微笑を目にして、この人の心は今も『誰か』の側にあるのだとわかった。  そしてその『誰か』は夜桜によく似ているという『美桜』のことなのだろうと思う。  紫苑が夜桜を美桜の代わりとして見ているとわかっても、夜桜には不快感もなければ腹が立つこともなかった。  ただ、かつての自分にもこんな風にひたすらに自分を求めてくれる人がいただろうかと思い、少し、ほんの少しだけ羨ましく、焦がれるような気持ちが胸をかすめた。
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