第一話 優しい日常

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その後、紫苑はおもむろに座っていた縁側から立ち上がった。 「急ぎの用ができたから、少し出てくるね」 「お仕事ですか」 「そう。酉の刻になる前には戻ってこられると思う」 「わかりました」  紫苑は夜桜に留守を任せると家を出て行った。  ひとりきりになると途端に静寂が増したようだった。ここは町から外れたところにあるらしく人の気配をほとんど感じない。唯一の音である空を飛ぶ鳥の声が、やけにはっきりと聞こえた。  物思いに耽って思うのは、あのときの紫苑の切ない微笑みだった。 (笑っていたのに、今にも泣き出しそうな……。どうしてあんな微笑み方をしていたのかしら)  紫苑がそのような表情をするときは大抵『美桜』が関係していることが多い。 (もしかして、過去に『美桜』さんに似たようなことを言われたことがあるのかしら……?)  しかし、夜桜ひとりが頭を悩ませたところで答えが出るはずもない。  麗らかな春の日射しの下、ぼんやりと庭の花を眺めながら考えごとをしているうちに夜桜はいつしか微睡み、夢の世界へと誘われていた。  手元には書と冊子、墨のついた筆と硯がある。  書は植物の専門書らしく、隅に花の絵図があるほかはびっしりと文字で埋まっていた。それとは対照的に並べられた冊子はまだ新しく、余白が目立つ。  視線は左から右へ、右から左へと行ったり来たりし、自分は手を動かしていた。  どうやら勉強中らしい。自分は夢中になって書の文字を追い、絵図をじっくりと観察しては冊子に大事だと思ったことを書きつけていた。  短い夢から覚める。  はっとして縁側から見上げた空は薄青から橙に染めかえられていた。 (さっきのは、夢? ……いいえ、記憶、だわ……)  どうやら夜桜は花が好きだったらしい。植物の知識は勉強により身につけていたようだ。  自分を形作る貴重な情報を取り戻したことに、夜桜は小さく安堵していた。紫苑にこのことを伝えたら、同じように「良かったね」と言ってくれるだろうか。 (紫苑さんは……、まだ帰ってきていないようね)  まだ酉の刻まで時間はある。しかし、夜桜にできることは限られているのでこの後はどう時間を過ごそうか。  考えてみたが書を読むことしか思いつかなかったので、夜桜は室内に戻ると紫苑から借り受けたいくつかの書の内、読みかけの一冊を選び取った。  夕陽の光を頼りに文字を目で追う。  陽が落ちるにつれて辺りは紗がかかったような薄闇に包まれていったが、夜桜はそれすらも気づかないほど書の世界に没頭していた。 「もう、また……。目を悪くするよ」  夜桜の背後から声が掛かると同時に行灯に明かりが灯される。  そこでようやく夜桜は紫苑が帰ってきたことを知った。 「え、ああ……気づかなかったです。おかえりなさい、紫苑さん」 「うん、ただいま」  ちょうど酉の刻を報せる鐘が鳴る。 「夕飯の準備しよう」 「はい、お手伝いします」  夜桜は書を閉じると立ち上がり、紫苑の後について土間へ向かう。昼食作りを数刻前に教えてもらったばかりなので、夕食作りも難なくこなせた。  居間で食事を摂りながら、夜桜は花が好きだという記憶を取り戻したという話をした。 「良かったね」  紫苑は夜桜の予想通り、安堵を含んだ声で確かにそう言った。けれどそれだけでなく、どこか不安を抱えたような響きも帯びていて、まるで紫苑がときおり見せる複雑な微笑のようだと夜桜は思った。  夕食後に湯浴みも終えた夜桜は布団に横になって真っ暗な天井を見つめていた。  今日はたくさんの出来事があった。家事を教えてもらい、楓に出会い、花に触れ、記憶の欠片を垣間見た。何より大きな変化は夜桜の心持ちだ。今までは流されるまま思い出せればそれでいいと思っていたが、紫苑の優しさに触れるうちに自分に向き合って、過去を思い出して、彼の求めるものでその恩を返せるようになりたいと思うようになっていた。  紫苑がときどきのぞかせる複雑そうな表情や声が夜桜の脳裏にちらつく。その訳を無理矢理聞き出そうとは思わないが、気にはなっている。 (いつか、理由を知ることができるかしら……)  今日はよく動いたからか、すぐにまぶたが重くなってきた。  夜桜は夢も見ないほど深い眠りに落ちていった。
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