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身にまとうように
一、
人々が身にまとう服によって、自在に能力を高められるようになったのは21世紀も半ばのことだ。
それは服のフォームによって心理的パフォーマンスが上がるという、心理学でいうところの制服効果によるものでもあるし、
服の質感によって皮膚の定点を刺激し脳に電気信号を送り、知覚を高めるという科学に基づく直接的な効果でもある。
いずれにせよ当初こそ高価であったその〝スマートウェア〟は、発売早々、決して表舞台に顔を出さない発案者が特許権を放棄したことでも話題になった。いまでは安価なファストファッションにまでスマート機能は採り入れられ、人はその日の気分や目的に応じて、文字どおり能力を〝着替える〟ようになった。
だがあらゆる物事には光と影があった。
ことスマートウェアに関して言えば、人々はこの自身の高い能力が〝服のおかげ〟であることをすっかり忘れてしまったということだ。そしてこれは自身の実力であると勘違いを起こすようになった。人間の脳とは得てして都合のいい代物だ。
だがスマホを忘れる人間はいても、服を着忘れて外出する人間はおよそ滅多にいない。スマートウェアはその意味でも人々の日常に一体化し、勘違いをほぼ事実へと近似させるに成功した。はずだった。
二、
「……遅ぇ!!」
「は、はひっ……すみませ……、」
医療機器メーカーのロビー。客先に出発するため指定した集合時間より、男は7分ほど遅れてやってきた。
わかりやすく膝をつかんで喘鳴を繰り返す小鳥遊恭平を、仲村は半ばうんざりした表情で出迎えた。
「決まれば一億の商談だぞ。わかってるのか?」
こくこくと息切れしたまましきりに頷く。寝癖が直りきっていない猫毛、21世紀も佳境であるというのにいまだ近視矯正デバイスを用いず、頑なにこだわる黒ぶち眼鏡。この情けない風貌の男をやや下に見つつ、人事異動にもAIの補助が入るようになって久しいが、〝AI先生〟はどんな高尚なお考えがあって、小鳥遊を情報システム部から回してきたのか、としばらく考えをめぐらす。
「……もういい。行くぞ、」
はいっ、とやたら威勢よく返事をしたかと思えば、かばんを両腕に抱えてひょこひょこと後からついてくる。先が思いやられるな、とくすぶりかけたが、思い直し歩を進めることに集中した。
三、
準備は至極万全だった。
事実、客先のミーティングルームで行われたプレゼンは粛々と流れるように行われ、折を見て挟まれるコメントも好意的なものだった。頷く表情に、客が契約に傾いているのが見て取れた。
半ば成功を確信しかけたときだった。
各々のスマートデバイスから突如としてけたたましい警告音が鳴り響き始めた。
「……なんだ…!?」
客側の書記係がすぐさまオンラインにアクセスする。壇上のスクリーンに速報が表示された。
「スマートウェアに……ウィルス感染……!?」
「皆さん、ウェア連携のデバイスを強制シャットダウンしてください、」
各々が強制シャットダウンをするのと、書記係が叫ぶのはほぼ同時だった。とうぜん俺もシャットダウンを試みる。
だが皆がシャットダウンに成功してひとまず落ち着くいっぽう、俺のデバイスだけがいっこうにオフにならない。
いくら長押ししようとも、デバイスの警告音はつづく。焦りを憶えた瞬間、ぐらりと視界が回転した。
「仲村さん!!」
駆け寄ってきたのは小鳥遊の声だった。なぜ小鳥遊越しに天井が見えているのか。ああ、倒れたのか。
「仲村さんっ、」
意識が遠のいてゆく中、失礼します、という小鳥遊の声掛けとともにジャケットを脱がされ、シャツのボタンが勢いよく弾け飛ぶのを感じた。
ああ、シャツを引き裂いているのか。そうか、脱いでしまえばいいのか……。
だんだんと意識がクリアになってゆく。小鳥遊は俺を丁重に横にし、最後に袖を剝ぎ取った。
意識が明瞭さを若干取り戻しているのは感じていたが、いまだ脳が気怠く、上半身を起こすのが精一杯だった。
「すみません仲村さん、少しお時間をください、」
いつの間にか自身の席へ戻っていた小鳥遊が、ノートPCのキーボードを猛烈に叩きはじめた。
「スマートウェアのコードに入り込んだウィルスを駆除します、」
「なんでだ……? そんなことが、」
できるのか、と言いかけたが、俺の眼を見て微笑んだ小鳥遊の笑顔がやたら眩しく映り、俺は思わず息を呑んだ。
「黙っていてすみません――、入社前になりますが、……スマートウェアを開発したのは僕なんです」
客先から感嘆の声が洩れた。
四、
二人して社に戻る途中だった。
インシデント経緯書も含め、報告書を山のように上げねばならない。のろのろと歩く俺の歩みに合わせてか、小鳥遊も時折景色を眺めながらゆっくりと歩く。
先方の好意でいただいたシャツを着たものの(むろんスマート機能未搭載のものだ)、俺の足取りは重い。
結局、案件は無事成約となった。
これまで先方が懸念していたのはウィルスなどの外部攻撃であったらしく、小鳥遊ほどの天才エンジニアが在籍しているならそれは杞憂であろうという結論に達し、とんとん拍子に成約に至った。
陸橋の途中で、俺は歩みを止めた。
「小鳥遊、なぜ営業部への異動を受けた――?」
俺が止まったことに気がついた小鳥遊が振り返り、きょとんとした表情で俺を見上げる。あくまで澄みきった焦げ茶の大きな眸に、俺は思わず眼を逸らした。
「小鳥遊ほどの技量があればAIの異動提案を断ることも、上は納得しただろう。営業なんてつぶしがきかない仕事だぞ。情シスに戻ったほうがよほど、小鳥遊のために――、」
「僕は、人々の幸せのためにスマートウェアを開発したんです」
驚いて思わず顔を上げる。
「特許権を放棄したのもそのためです。でもだめだった……簡単に能力を引き上げる装置は、人々を怠惰にして努力を忘れさせてしまいました、」
「……、」
「僕はスマートウェアから決別するつもりで、この会社を受けて入社させてもらったんです」
ビルの谷間に夕陽が沈もうとしている。
「営業部への異動を打診されたときも、ためらいはありませんでした。僕はいろいろなことを〝知りたい〟んです。どうすれば人々が幸せになるのか、」
強い決意を帯びた表情に、俺は思わず昔を思い出した。
気鋭の医療機器メーカーに新卒で合格、営業部に所属したとき――俺は決意に満ちていた。
当社の技術で医療と人々の健康に貢献するのだ、と――。営業成績トップに昇りつめるまでさして時間はかからなかった。
しかしスマートウェアで能力を楽に維持できるようになり、日々の業務は単調なルーティンと化した。日常に〝慣れきって〟いたのだ。
もう一度、……この男となら。
「それなら」
好奇心を、取り戻せるかもしれない。
「一緒に進んでくれるか?」
「……はい!!」
差し出した右手を、小鳥遊は嬉しそうに両手でしっかりと握りしめた。
沈みかけた夕陽とともに空が燃え上がった。
(了)
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