30人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
あの日見たのは、確かに竜というやつだった。
この世界で空を飛ぶものといえば、鳥、蝶々、飛行機とか色々ある。
けれど大きな翼があって、長い尾のようなものがあって、遠くからでもきらりと光る飛行物体を他に知らない。
鳥だろうと大体の人は言うだろう。あるいは凧とかUFOだとか、それか俺の見間違いとか。
とにかくこの科学が発展した現代ではそういった空想上の生物というやつらは何故かいないものと断定され、そういったものを見たと言えば頭がおかしいか妄想癖があると思われる。けれど俺は確かに見たし、何ならスマホの画面にもその神々しい姿がはっきりくっきり映っている。もちろんSNSで拡散するような馬鹿な真似はしない。
ただ自分の目はおかしくないのだという、これは現実に起こっているのだという証明のために撮ったのだ。よって俺しか見ていないし、今後誰かに見せる予定もない。
咄嗟に撮った一枚の写真。
そこに映っていたのは一面真っ青に広がる空と、鳥と呼ぶにはあまりにも大きな翼を広げた不思議な生物。鱗があるんだろうか。陽の光を反射してきらりと銀色に光る身体は遠目から見るとつるつるとしていて、それでいて堅そうだった。実際銀色よりももっと黒に近い色をした身体は静止画の中じゃ動かないけれど、あの時俺の視界では確かに力強く羽ばたいて、重そうな身体を大きな翼でばさばさと運んでいった。
俺以外の誰がその光景を見たかは分からない。周りには誰もいなかったし、俺は突然現れたその黒銀に夢中だったし、もしかしたら俺以外は誰も見ていなかったかもしれないし、そうでもないかもしれない。
しかし何日経ってもあの不可思議な生物がニュースに出ることはなく、SNSのトレンドに上がることもなかった。興味本位で検索してみても怪しげなページが出るだけで、あの神々しさはどこにも見当たらない。
ここまでくるとやっぱりあれは自分の見間違いだったのかと不安になるけれど、そしたらこの俺の画像欄にある写真は何なんだろう。
空想上の生物は実在しないだなんて、馬鹿げた考えだと思っていたのに。時間が経つにつれ、やっぱりあれは夢だった、いや夢ではなかったとあっちこっち思考が彷徨って、俺は遂にあれを探しに行くことにした。
全く見当もつかないが、悩んでいるくらいならとりあえず行動してみようと、ただそう思っただけだった。
さて、俺はまずあの竜の目撃地点に行った。とはいえそこは俺の通学路で家から徒歩数分、学校に行く用事でもなければ通ることはないが、行こうと思えばすぐの河川敷だ。寧ろなぜ今まで来なかったのか、一週間くらい悩んでいた自分が不思議なくらいだ。
そうしてあの竜が飛んでいったと思われる方角を目指し、自転車を漕いだ。歩いていくよりかは速く遠くへ行けるだろうと思って、とにかく漕いだ。目的地がどこかもわからないのに、俺はとにかく、あの竜の後ろ姿だけを思い浮かべながら足を動かした。
三十分もすると全然来たことのなかった街へ来て、帰る道が分からなくなるのではないかと一瞬これ以上進むことを迷った。だけど俺にはスマホがある。現代の文明の利器というやつだ。充電もほぼ満タン、街中だから電波も届く。よし、と一呼吸おいて再出発し、俺はまた自転車を漕いだ。
正直運動部でもなければ自分でここまで運動することもなかったから筋肉がそろそろヤバい。というか、俺はそもそも何のためにこんなことを…なんて思っているとふと道端にきらりと見覚えのある光が見えた。人気のない道で灰色の地面に転がるそれは、やけに俺の目を惹きつけた。何だろう、少しだけ懐かしい感じがする。
ゆっくり恐る恐るそれに近づいて、自転車を脇に置いて、しゃがんで摘まみ上げてみる。陽の光にかざすとそれはあの日の光景を鮮明に蘇らせた。きらきらしてて、見たことない反射の仕方でたまに虹色にも見える。大きさは手の平より一回り小さいくらいで、思っていたよりまあまあ大きい。でも人工物とは思えない。
これはきっと鱗だ。それにあの巨体なら、鱗一枚がこの大きさでも妥当かちょっと小さいくらいかもしれない。
鱗があるなら、あの竜もきっとこの近くにいるはずだ。そう確信してまた自転車に乗り、漕ぎ始めるとすぐ、目の前からふらふらとよろめきながら歩いてくる人影が見えた。鱗を拾った場所から百メートルも進んでない。大丈夫だろうかと近づいてくるそのひとをじっと見ると、青年のようだった。
年は俺よりちょっと上くらいかな。近づいてみると結構背が高くて、俯き加減になっていてもスタイルが良いことが分かる。そして俺が一番驚いたのは彼の髪だった。陽の光の下できらきら輝くそれは、俺の手の中で光る鱗と完全に同じ色をしていた。さらに不思議なことに、彼が一歩、また一歩と近づくたびに俺の手の中が温かくなっていくのが分かった。
鱗が、彼を呼んでいるのか。それとも彼がこの鱗を呼んでいるのか。
そうしてあっという間に俺の目の前に来た青年は、地面を見つめていた顔を上げた。息を呑んだ。
あの日の光景も、今まで見た中で最も美しいといっていいくらいの光景だった。けれど今俺の目の前でじっとこちらを見つめる空の青は、その顔は、あの日の光景に匹敵するくらい…もしかしたらそれ以上の美しさかもしれないと思った。動けない…。何かに見惚れるってことが本当にあるんだとどこか冷静な頭の隅で考えていた。
空色の瞳を俺から逸らさないまま青年は静かに近づいてきて、遂には少し手を伸ばせばすぐ触れられるところまでやってきた。俺はぼうっと半ば夢見心地にそれを見ていたが、ふと手の中の熱さで我に返った。熱い。さっきの比じゃなく、鱗が熱を発している。
手の中の鱗を見て、また青年の顔を見るべく顔を上げる。と、すぐそこに空色の瞳があって俺はまた息を呑んだ。というか、びっくりしすぎて額がぶつかるところだった。それくらい近くで青年は俺の顔を見ていたのだ。
「あの………」
これ、あなたのですか。
熱いままの手の中を見せられず言葉を詰まらせていると、青年の方が口を開いた。
「早くそれを離しなさい。火傷してしまう」
「あ」
彼はそうっと俺の手を開かせて、熱いはずの鱗を躊躇なく掴んで、俺から奪い取った。いや、奪うという表現は違うかもしれない。だってこれは元々この青年のものなのだから。
「ほら、赤くなってる」
「え、あ、つめたっ!?」
鱗を取って俺の手をじいっと見ていた青年がぽつりと呟くと、不意に手を握ってきた。鱗を持ってない方の手で。
彼の手は黒い鱗からは想像できないくらい白くて、艶のある綺麗な手だった。それが手の平に触れた途端、火傷したところを冷やすように冷たくなったので驚いてしまう。手を握られたとか、やたら距離が近いとかそんなことも気にならなくなるくらい、手の平が冷たくて気持ち良くて、そしてやっぱり不思議だった。
暫く…体感一分くらいだろうか。握っている手を離すと俺の手の平は完全に元通りになっていて、鱗を持っていたところもちっとも赤くなんてなくなっていた。それを確認した青年は安心したようにほっと息を吐く。
「見つけてくれてありがとう。これがなくて困ってたんだ。火傷させちゃってごめんね」
「いえ、はい…」
青年は何の躊躇いもなく俺の目の前で鱗を自分の腕に翳した。するとすうっと、消えるように、吸い込まれるように鱗が見えなくなってしまった。なくなったんじゃない、彼の身体に戻ったんだと何となく分かって俺は安心した。
「本当にありがとう。命の恩人だよ」
「そんなんじゃない、です…」
俺が見つけていなくてもこの道にあったのだから、放っていても彼は自力でこの鱗を見つけて自分の身体に戻せていただろう。寧ろその方が誰にも見られず、まして火傷の手当てなどせずに済んだのだろうから、俺は寧ろ邪魔だっただけなんじゃないかと落ち込んでしまう。けれどもそんな考えを竜ならば見抜けるのだろうか、青年は落ち着いた声で語りかけてくれた。
「きみが見つけてくれていなかったら、おれも見つけられなかっただろう。だからそんな顔をしないで」
手が、もう冷たくないことには驚かなかった。それよりも彼の右手が俺の頬に添えられて、上を向かされたことの方に驚いた。このひとは…ひとじゃないかもしれないが…彼は躊躇なく俺に触れる。決して嫌じゃないけれど、意外だなと目を丸くしてしまう。
竜というものはもっとプライドが高く、安易に人に触れたがらないものだろうと勝手に想像していたからかもしれない。物語の中では、そんな印象のものが多かったからだろうか。
でも彼は違うらしい。そしてそんな青年の意外な気安さに乗じてか、俺の口もいつもより軽くなってしまう。
「…飛んでいる時に落としたんですか」
「うん、そう。やっぱり見られてたんだな」
「落としたところは見てないです」
「でも、飛んでいるところは見たんでしょ」
「………見ました」
「まさか見える人間がいるとは思わなかった。でもおかげで、助かったよ」
あまり表情を変えずに淡々と告げる空色の瞳は嘘を吐いているようには見えなかった。こんなことを俺に話してしまってもいいものなんだろうか。正体を隠したいとは思ってないんだろうか。でも俺の口から出たのはそんな疑問でも質問でもなくて、ただ会えたらずっと伝えたいと思っていた一言だけだった。
「きれいでした。すっごく、きれいでした」
「きれい」
「はい。だからまた見たくて、会いたくて、ここまで…あ、えっと」
言ってて恥ずかしくなってきた俺の顔はさっきの手の平ほどではないけれど、きっと熱いし赤い。でも青年は手も視線も離すことなく、「そっか」と短く返事を零した。桜色の唇はそれ以上何も追及する気はないようだった。
「きみがおれに会いに来てくれてよかった。さて、火傷のお詫びと、拾ってくれた鱗のお礼がしたいんだけど。何がいいかな」
「えっ、要らないです。俺が勝手にやっただけだし」
「きみの想像通り、おれたちはプライドが高いんだ。だからこのまま何も返さないってのはありえない。それにきみ自身のことも、もっと知りたいし」
「ナンパみたいですね…」
「まあ確かに」
気安いな。竜なのに。竜なのかな。
そもそもこの青年があの竜だなんて確証は彼の身体に消えてしまった。その光景を見ていたのもまた、彼以外には俺だけだった。というかおれ「たち」ってことは…仲間がいるんだろうか。
「さて少年、きみを家まで送ろう。それからまた考えさせて」
「えっ、飛ぶんですか」
もしかして背中に乗れたりするのかな、とわくわくしてしまう。ファンタジーな経験ができるかな、とか、単純に空を飛ぶのはどんな感じなんだろうとか。そんな煩悩が思いきり顔に出ていたらしく、青年は目を瞬いた。
「電車だよ。自転車はこの辺り二人乗りできないし。あー、自転車は電車に持ち込めるのかな」
「………竜ですよね?」
「ん?おれそんなこと言った?羽根とか出てる?」
「出て…ないですけど」
こうして話していると本当にただのすごい美形なお兄さんだ。そうだった、話してるうちに忘れてたけどこのひと…ひと?まぁいいや、彼はすごく美しい姿をしているんだった。黒いシャツに黒いスラックス、今はもう彼の身体に溶けてしまったけれど、たまに虹色の輝きを見せる髪はあの鱗と同じで。こんな彼が電車に乗って大丈夫だろうかと心配になる。働いてるのかな。モデルさんとか役者さんって言われても何ら不思議ではないし寧ろこんな彼なら一度見たら忘れることはないと思う。俺みたいに。
結局ひとの姿でも竜の姿でも俺はこのひとを美しいと思うんだなぁとしみじみしているうちにカシャンと音が鳴った。いつの間にやら俺の自転車を押して彼が歩き出さんとしていたのだ。
…美形と自転車って、合わないんだなぁ。
「さあ行くよ。駅まではちょびっと歩くからね」
「…飛ばないんですか?」
「おもしろい子だなあ。ま、気が向いたらね」
「はあ」
そういう貴方の方が俺よりも数百倍はおもしろいと思いますけど。とは言わなかったがもしかしたら伝わってしまったかもしれなかった。背中しか見えなかったのに、ふと微笑った気がしたからだ。くそう、見逃してしまった。
「機会はこれからいくらでもあるよ。さて少年」
「…?はい」
「まずは名前を教えて。それから、仲良くなったらおれのことも教えてあげる。かも」
「かも」
「ともだちっていうのはまず名前を知らなきゃ。そうだろ?」
「ともだち、なんですか」
「これからね。とりあえずはね」
とりあえず?
彼の言うことはたまによく分からない。それも種族の違い故なんだろうか…。そう思いながら俺も隣に並んで、同じ歩幅で歩きだした。
最初のコメントを投稿しよう!