295人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話
「ノエ、STOP!」
「また?全然進まないじゃん!えーっ…」
見ている映画を一時停止しろと、言われている。映画の中で食事のシーンになると、必ず一時停止されてしまう。コマ送りにする時もあるが、どっちも同じだ。映画に感情移入しているところ興醒めとなる。
「…このタイミングでカレーか?子供が巣立つ時だろ?普通さ、お母さんはその子供の好きな食べ物を出すと思うんだよなぁ。この子供はカレーが特に好きなわけじゃなかっただろ?はい!ノエ、答えて?何でこの場面ではカレーなんでしょうかっ!」
映画を一時停止しろと言うのは、井倉武蔵。高級リストランテのシェフである。
「えーっ…」と不服そうだが言われた通り、一時停止ボタンを押したのはノエ。
最近の休日は二人でこの遊びばかりしている。遊びというか、映画を見てはクイズのようなものを出し合ったりしていた。
武蔵はイタリアンのシェフなので、映画の中で食事のシーンが出てくると気になるようであり、クイズが多めになる。クイズの出題者が武蔵からの場合は、一時停止が基本なので映画を見ていてもなかなか先に進まない。
ノエと武蔵は同じリストランテで働いている従業員同士である。二人の出勤シフトはいつも同じなので、休みも一緒。最近の休日は、武蔵の家でノエは過ごしていた。
武蔵の家では、壁をスクリーン代わりにし、映像配信をそこに映し出している。今日は休日だから、朝からずっと二人で何本も映画を見ていた。
「コーヒー飲みます?」
「あっ!飲む!」
ノエはコーヒーを淹れに立ち上がった。武蔵の家には何度も来ているから、キッチンのどこにコーヒーがあるのかはわかっている。それに、コーヒーを淹れることは、ノエの役割になりつつあった。
ノエの後に続き武蔵もキッチンまで来ていた。冷蔵庫を開け覗き、何か考え込んでいる顔をしている。
「武蔵さん、ちゃんと見てました?あの家は、土曜日はカレーの日なんですよ。だからカレーなんです。子供が巣立つ日だからって特別なメニューにはしないんですよ」
ノエはコーヒーを淹れながら、冷蔵庫を覗いている武蔵に、映画の中の説明をした。
映画の中の家族は食事中。子供が海外に旅立つと決心する。旅立つ前日の食卓にはカレーが出されていた。それは、その家族の中で『毎週土曜日はカレーの日』と、決まっているルールであるからだと、ノエは武蔵に説明した。
「でもさぁ、せっかく子供が巣立つ時なんだから、好きな物を作ってあげればいいのに。土曜日だからって、カレーじゃなくってもいいじゃん。子供だって好きなもの食べたいだろ」
「だから、ちゃんと見ましたか?って聞いてるんです。子供の好きな唐揚げがテーブルには乗ってたじゃないですか。お母さんが作る唐揚げです。作ってくれてたんですよ。それに、お母さんやお父さんは本当は寂しいんです。だから、普段と同じ料理にしてて。子供が巣立つからって特別なことはしたくないんです。寂しくなるから」
「えっ!唐揚げ?そんなのあった?」
驚いた声を出した武蔵は、冷蔵庫をバタンと閉めてキッチンから部屋に戻り、スクリーンに向かった。
コーヒーを手にキッチンから部屋に入ると、武蔵は腕を組み仁王立ちで、一時停止してある映画のシーンを凝視していた。
その武蔵をノエはじっと見つめ、ため息をついた。
ノエは困ったことにこの男が好きである。
武蔵の作る料理は繊細であり、見た目は美しく、そして食べれば美味しい。初めて食べた時は驚いた程だ。そのシェフの仕事に真摯に向き合っている姿と、真剣な表情で考えているところが、ノエが武蔵を最も好きなところだった。
そんな繊細で美しい料理を作り出すが、武蔵は若干無神経な男であると、ノエは思っている。
武蔵は、他人を気にせず自由に気楽に過ごしていて、人に興味がなさそうである。
そのくせ誰に対しても優しくしたり、褒めたりと、人のことをよく見ていたりする面も持っている。
人に興味がないくせに、面倒見がいいって意味わかんないと、ノエは思っていた。
最初はそんな感じで武蔵のことを見ていたが、ノエ自身、武蔵から『可愛い奴め』など、照れ臭くてたまんないことを言われることが多くあった。
武蔵から言われると途端に意識するようになった。それなのに、武蔵本人は『そんなこと言ったか?』と、言ったことすら忘れていることが多い。
その気にさせといて、自分が言ったことを忘れてるなんて、ひどい男の典型だ。
多分、今までもノエと同じように勘違いし、武蔵を好きになる人は多くいたと思う。優しくされたり、褒められたり、頼りにされたりを繰り返された時、もっともっと魅かれて、武蔵を好きになっていた。
素直ではないノエは、武蔵に褒められると、そっけない返事をしてしまう。好きだという感情が溢れてしまうので、無駄に武蔵に対してツーンとした態度をとっていた。
だけど、ひょんなことから心の声を口に出してしまい、自分の言葉を止められなかったことがあった。
「はぁ…ほんっとムカつく。武蔵さんはさ、無神経なのにそういう発言するんだよね。だから武蔵さんのこと、どんどん好きになっていくんだよ」
と、武蔵本人に好きだと伝えてしまったことがあった。
それは落ち込んでる時に、ノエの好きな食べ物を作ってくれたことがあり、「今日はちょっと落ち込んでたんじゃないか?ノエはこんな感じのシンプルな食事が好みだもんな」と、好みまでをサラッと言われ、胸をギュッと掴まれてしまったことがあった。
ノエの気持ちが沈んでいることもわかっていて、食の好みまでわかっているんだから、もうっ!と感情が湧き上がり、咄嗟に武蔵を好きだと、口走ってしまった。
口からポロッと出てしまった好きだという言葉にひどく後悔をするがもう遅い。
武蔵は相当驚いた顔をしてこう言った。
「ノエ?好き?俺のことだよな…好きって人類として?それとも男として?」
ノエは、武蔵のその言葉にムカつき言い返してやった。
「何、人類って…バカじゃないの?男として好きだって言ってんの。俺は武蔵さんが好き。わかった?」
相変わらず可愛げのない言い方だが、人類としてと考える武蔵もどうかしてると思う。
改めて武蔵を好きだと言った後「ええーーっ!マジでーーっ!」と超大袈裟に武蔵に驚かれてしまった。
しかも、「えっ、えっ、じゃあさ、付き合いたいとかの好きってこと?」と、更に無神経なことを武蔵は続けて言っていた。
好きでもないのに、付き合うとかよく言うよ!よくズケズケとデリカシーなくそんなこと聞けるもんだと、ノエは呆れた。
「付き合いたくはないですっ!付き合いません!でも、好きですけどね」
すかさずまた可愛げがない答えをノエは口走った。自分が可愛くなく、失礼過ぎてため息が出る。
「はあっ?何だよそれ!好きなら付き合いたいって思うだろ?好きなのに付き合いたくないってどういうことだよ。そんなの、好きって言わないぜ?」
「いいえ!好きです。武蔵さんのことが好きでいつも目で追ってしまいます。でも、こんな無神経な人とは、付き合えません!」
「よーし!わかった…わかったぞノエ。お前をめちゃくちゃに甘やかすから覚悟しろ!そして俺が無神経じゃないと感じたら、意地を張らずにすぐ教えろ。いいな」
と、いう言い合いがあり…今に至る。
無神経という言葉に引っかかったのか、何かと武蔵は張り合う。ノエを甘やかすことが出来れば細かな気配りが出来る男であり、無神経な男ではないはずだと、武蔵は言い張る。なので、それ以来、二人は休日になると一緒に過ごすことを始めていた。
「なんだよ…ノエ。ボケっと俺のこと見てさ、また惚れたか?」
この人…本当に無神経。
だけど、この人のことが好きだ。だから困っているんだ。
「映画を途中で一時停止するでしょ?こっちの感情移入はどうなるんですか。せっかくいいところだったのに。だからやっぱり無神経だなって思って、武蔵さんのことを見てたんですよ」
ツーンとした顔をして言ってやった。
好きになった人と付き合いたいと考えたことはない。世の中だって、みんながみんな好きだから付き合うって、考えるわけではないだろう。
ただただ好きでいさせて欲しい。静かに近くにいて、こっそり姿を見させて欲しいだけ。そう考えてまたノエはため息をついた。
「そうか、ごめんな。なんかさ、食事のシーンがあると気になっちゃうんだよ。それに、ほら、ノエは人の気持ちがよくわかるだろ?繊細っていうか…人がどうして欲しいとかすぐに解るじゃん。だから、映画を見ててもそういうのを教えてくれると面白いからさ」
ノエは人との距離感や人の心の動きなど、瞬時に察することが出来る。相手が何をして欲しいのか、ちょっとした仕草や声のトーンでわかるようになり、今ではそれを仕事にし、役立ているところがある。
仕事はウエイターだ。武蔵と一緒に働いているリストランテでノエはウエイターをしている。
リストランテに来るお客様の心の動きや、細かい仕草を観察して、心地よく、気持ちよく食事をしてもらうようなサーブをウエイターとして心がけている。そのノエの仕事で発揮している観察力のことを武蔵は言っているようだ。
「仕事ではそうだけど…映画は、またちょっと違うでしょ?俺は演技ではないお客様の気持ちじゃないとわかんないですよ」
「そういうもんかぁ?」
そう。映画とは演技である。演技が上手いなぁと感じる俳優さんだと、心の動きがわかる時もあるけど、演技だとそうそうの場合はよくわからない。まだまだ自分は修行が足りないのかもしれない。
飲んでいたコーヒーが冷めてしまった。
それでも二人で飲むコーヒーは好きだ。
「でも、この映画の監督は、食事を大切にしてるのがわかりますね。家族の…多分、お母さんの気持ちが溢れるようにしてるんだと思います。だからこの場合の食事はカレーで正解なんですよ。じゃあ!俺、帰りますね」
映画は途中だけど、コーヒーは飲み干した。
夜も遅いし帰ることにする。
明日は仕事だし、このままここにいたら武蔵が寝不足になってしまうのは目に見えているからだ。
「えっ、マジ?もう帰る?あー…もう22時か。じゃあ送って行くよ。この続きは次の休みに見ようぜ」
「いいよ、送ってくれなくて。俺は電車で帰るからさ」
電車で帰ると言うのに、武蔵はその言葉を無視して支度をしている。結局、車で家まで送ってもらうことになるのは、ノエにもわかっていることだった。だって、この生活がもう2ヶ月も続いているんだから、相手の行動パターンなんてわかっている。
この2ヶ月の間に武蔵は車を購入した。ノエを自宅まで送ること、ノエと買い物に行くこと、それ以外で車を使っているのを見たことがない。職場には電車で来ているようだし、休日はずっと一緒にいるし。
武蔵は、まるでノエのために車を購入したみたいだ。と、都合よく考えてしまうけど、他に思い当たるところがないからよくわからない。
武蔵の家からノエの家までは車で20分。バタバタと支度をして、あっという間に家まで到着した。
「いつもすいません。送ってくれてありがとうございました。ご飯もごちそうさまでした」
これもいつもの挨拶だった。
そしてこの後言われる言葉も知っている。
「ノエ?俺と付き合う気になった?」
ほらね。
そしてノエからも、いつもの言葉でこう答える。
「付き合いませんってば…」
武蔵は、ノエを好きでもなんでもないことは知っているし、わかっている。
だけど、何故言うんだろう。武蔵は、揶揄って言ってるわけでもなさそうである。
付き合うってよくわかんないけど、普通は好きになり、告白してから付き合うのではないのだろうか。
「俺に恋人はいないって知ってるだろ?って言ってもダメか…また今日もフラれたかぁ。じゃあ、また明日な。寝る前にメッセージしろよ?」
何も言わずにノエは車を降りて家に入る。自宅は、大きな昔ながらの平屋の一軒家である。玄関から中に入るまで、武蔵は車の中からノエを見送ってくれる。
何でそんなことするのか?と以前聞いたことがあった。女の子でもないのに、車で送ったり、家の中に入るまでジッと見送ったりしてくれるのは何故なんだろうかと。
そう聞くと武蔵は笑いながら「なんでだろう?俺がそうしたいから?だろうなぁ」と言っていた。
玄関を入り、鍵をかける。そのまま車が立ち去る音を、耳を澄ませて玄関の内側から聞いていた。
本当は嬉しくてたまらないくせに、自分の可愛げがない性格のおかげで、無駄にツーンとした態度で車を降りてしまう。こんな性格の自分は嫌だけど、素直になることは難しい。
今日も後悔することだらけだ。
「ただいま…」
声をかけるのは写真の祖母だ。3年前までここで一緒に生活をしていた。大好きな祖母は今はいない。この広い家にもノエはひとりである。
無駄に広いから部屋は寒い。暖房をつけてボーッとスマホをいじる。
何とか重い体を引きずってお風呂に入り、ベッドまで到着した。今日、後やることは武蔵におやすみの連絡をするだけ。
次の休みはいつだっけ?とベッドの中でスマホをいじっていると、武蔵から先にピコンとメッセージが送られてきた。
『もう寝た?』と簡単なメッセージだ。
『まだ』と返事をすると、『明日から年末まで忙しいぞ。早く寝ろよ』と言われる。
そうか、次の休みは年末年始だと気がつく。店は、かなりまとまった休みになるから、従業員もみんな長い休みが取れるようだ。
年越しは海外に行く人もいるだろうな。だけど、今年の年末年始もひとりでこの家で過ごすのだろうと、ノエは考えていた。
『ノエ、年末年始どうするんだ?』と、もう一度武蔵の方からメッセージが届く。
『年末年始は家にいる。部屋の片付けもあるし』と返信すると、すかさずすぐにまたメッセージが届く。
『じゃあ、大晦日はこっち来いよ。年越しで映画の続き見ようぜ。おせちでも何でも作ってやるからさ。一緒に酒でも飲もうぜ』と、書いてあった。
「おばあちゃん…どうしよう」
そう声に出してノエはスマホを閉じた。こんなにされると嬉しくなる。仕事の休みは一緒、休日は必ず武蔵の家に行っている。
休日の朝、武蔵は車で迎えに来てくれて、家ではご飯を作ってくれる。二人で映画を見て、笑ったり泣いたりして、食事のシーンになると一時停止をする。
そしてクイズのように、武蔵はいつもノエに質問をする。この映画の食事はどうしてだと思う?何で主人公はこのご飯を食べたいんだろうと。
そんな武蔵のクイズに答えるのが、ノエは大好きだった。映画という二人で同じものを見ているから共通の話題が常にあるが、考えは必ずしも同じではないこと。それがノエには新鮮であり、答えを出し合ったりするのが楽しかった。正解のないクイズを二人で楽しんでいる。
映画を一時停止をするから感情移入が出来ない!と、不服そうにノエは言っているが実際はそんなに不服ではない。武蔵からクイズのようなものを問われる度に、ノエは嬉しく思っていた。
そんな休日のクイズの中には『ノエの食べたいもの当てようか?』と武蔵が言い、冷蔵庫の中を二人で覗き、武蔵は食事を毎回作ってくれる。
冷蔵庫を覗きながら考える武蔵は、ノエの食べたいものを半分の確率で当てている。いや、最近は、更に当たるようになってきたと思う。すごいことだ。
当たっても、当たらなくても二人でゲラゲラと笑い、楽しい休日を過ごしていた。
だけど、胸は苦しくなってくる。武蔵はどういうつもりでノエと一緒にいるのだろう。車を降りる時に毎回『付き合う?』と聞くのはどうしてだろう。
好きだとノエが伝えたからだろうか。だとしても、武蔵からは何も伝えられていないのに、好きの先にある付き合うという考えにどうしてなってしまうのだろうか。
無神経な人のことはやっぱりわからない。ノエはそう考えて『寝る』と武蔵にメッセージを送り、スマホを閉じた。
最初のコメントを投稿しよう!