第2話

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第2話

武蔵の言う通り、年末の忙しさは時間の感覚がなくなるほどだった。リストランテでお客様をサーブし、家に帰ってきてからは広い家の片付けを黙々とする日々を過ごしていた。 祖母と暮らした大きな平屋は、来年の春には取り壊されてしまう。必然的にノエは引っ越しをしなくてはならなくなった。 取り壊した後は、父が新しい家族と共にまた大きな家を建てるという。そこでノエも一緒に住もうと誘われているが、新しい家族の中に入り暮らすことは、自分にはちょっと難しい。それより気兼ねないひとり暮らしをしようと考えている。 昨日の夜、武蔵と通話した時の会話をふと思い出した。武蔵は年明け早々に引っ越しをすると言っていた。それは多くなり過ぎて困っている本の山が原因だという。 「んなぁぁー!ヤバい…もう本が多過ぎて窒息してしまうかもしれん!」 「そんな大袈裟な…って、でもホントかもね。武蔵さんの部屋は本の山がいっぱい出来てるもん。何でそんなに紙の本ばっかり買うの?電子書籍でもいいじゃん」 「いや…ダメだな。俺は写真が好きなのかもしれないけど、紙の本じゃないと、なんかこう…インスピレーションが湧かないつうか。とにかく電子書籍はダメ!」 イタリアンのシェフとして、常に新しいメニューを考えるのは、写真が美しい本のおかげであると武蔵はいう。武蔵の家には、色んなジャンルの料理の本だけではなく、動物や植物、建物などの写真集も多くあるため、とにかく場所をとるようだった。 「じゃあ、売る?」とノエがふざけて聞くと「そんなの絶対無理!」と言っていた。 そのやり取りを思い出し、祖母の部屋に入りノエは片付けをしていた。祖母の部屋に入るのはなるべく遠ざけている。それは今はいない大好きな祖母を思い出し、悲しくなってしまうからだ。 でもこの部屋とも、もうすぐお別れである。整理をしなくてはならないと、ノエは決心して部屋に入った。 元々、片付いてはいる部屋だが、大量に『ある物』が置いてある。それは写真だ。 祖母の部屋には写真がたくさんあり、今もまだそのままにしている。武蔵の家に出来ている本の山のように、祖母の部屋にも同じく写真の山がある。 祖母はノエが産まれた頃から写真をずっと撮っていた。ピンボケが酷いものも多く、とても上手いカメラマンではないが、笑ったり怒ってたり、泣いていたりする小さい頃からのノエを、祖母は毎日撮っていたと思う。 この写真たちをどうしようかと考えていた。全てを持って引っ越しをするには多すぎる。自分がこれから引っ越しをするところなんて、せいぜいワンルームだろう。だから、たくさんの中から持っていく写真の選別をしようと思っていた。 祖母の部屋は天井から壁に沿って棚が作られていて、そこには、アルバムが多く収納されている。 ノエは祖母の写真の山を、とりあえず箱に詰めて、棚の空いている場所に収納し片付け始めた。写真の選別の前に、一旦大掃除をしなくちゃならない。 キッチンから椅子を運び、椅子の上に乗り数冊づつアルバムを棚からずらして掃除をしていた時、体のバランスを崩してノエは椅子から落ちてしまった。 「いてててて…」 更に運悪く、写真がぎっしりと入ったアルバムが天井付近から数冊と、収納しようと箱に詰めた写真がドドドと落下して、ノエの体に直撃してしまった。 「やっば…」と声に出すも、足に鈍痛が走る。椅子から落ちた時に捻ったのか、アルバムが当たったのか、よくわからないが右足首を痛めてしまったようだった。 アルバムが天井から降ってきたので、辺り一面写真がばら撒かれ、写真の海のようになっている。その中で携帯電話の音が突然鳴り響いた。 ポケットに入れていたスマホが落ちたのだろう。どこにあるのだろうか。音がする方へ手を伸ばし、ノエは写真の海を掻き分けてスマホを見つけ出した。スマホの画面には『武蔵』と表示されていた。 「……もしもし?」 「あっ、ノエ?明日さぁ、こっち来るだろ?カニ食べたいって言ってたじゃん。カニさぁ、タラバでいいか?タラバは買ったんだけど、毛蟹もかなって思ってさ、」 武蔵は大晦日の食糧を買っているようで、電話の後ろは市場のようなザワザワとした音がしている。 明日は朝から武蔵の家に行くと約束をしている。だけど…右足首が痛い。ついてないなとノエは思った。 「…どうした?ノエ?」 何も言っていないが、武蔵はノエの気持ちを察したように、くぐもった声を出した。 「あ。うん。いや〜大掃除してたら、椅子から落ちちゃって、」 勤めて明るい声を出してそう伝えた。足首はズキズキとますます痛くなってきた。 「椅子から?おい!今、家だよな?今からそっち行くから。玄関の鍵開けれるか?」 また電話するといい、そのまま電話は切れてしまった。だけど本当に武蔵はものの数十分でノエの家まで車で来た。 携帯にもう一度連絡があり、玄関を開けてくれと言っている。 右足首を庇いながらひょこひょこと歩き、玄関のドアを開けたら、嵐のような勢いで武蔵が入り込んできた。 「どうした!何があった」 「だから…掃除をしてて…」 「頭は?打たなかったか?足が痛いのか?病院行こう」 ひょいっと横抱きにされた。保険証とか診察券とかあるか?と聞かれ、そのまま部屋に入り財布などが入っているバッグを指さすと、武蔵はそれを掴みノエを横抱きのまま車に乗せた。 「鍵、貸して。ドア閉めてくるから」 「えっ、えっ、あっ…はい、これ」 武蔵の勢いに押されながら家の鍵を渡した。武蔵がドアを閉めているのを、車の中から見ていた。 足首を痛めたが、病院に行くほどのことではないとノエは思っている。少し安静にしてれば治るだろう。 それでも年末年始に入り、病院も今日までだから、今のうちに行く方がいいと武蔵は言い、病院まで連れて行ってくれた。 玄関から横抱きのまま車に乗ったので、靴は履いていなかった。病院に到着してからもずっと武蔵に横抱きにされていて、ちょっと恥ずかしかったが、武蔵は平然とした顔をしていた。 診察をすると軽度の捻挫であり、やはり少し安静にしてれば大丈夫だと先生に言われる。しかし武蔵は心配しているのか、ノエを自宅まで連れて帰り、部屋の中でも横抱きで移動し、歩くことを許してくれない。 「武蔵さん、大丈夫だってば。先生もそう言ってたじゃん。明日からゆっくりするからさ。それに歩けないわけじゃないよ?」 「いや、ダメだな。無理しない方がいい。どこに連れて行けばいい?ベッド?ああ、ここのソファに横になるか?」 ノエは、リビングのソファにゆっくりと下ろされた。それまではずっと横抱きをされている。 抱き上げられて気がついた。武蔵は見た目よりガッシリとしている。ノエを抱き上げても、びくともせず、ヒョイヒョイと運ぶ。それに武蔵は、逞しい腕や胸板を持っていた。武蔵の身体を初めて感じ、ノエはドキドキとしてしまった。 「どこで転んだんだ?この部屋?」 「違う、そこの奥の部屋。おばあちゃんの部屋だったんだけど、そこで片付けしてたら、椅子から落ちちゃって…」 そこの奥の部屋と、ノエが指をさしたから、武蔵はチラッとその部屋を覗いていた。 「おばあちゃんの部屋?写真がばら撒かれてるぞ?」 「そう。その写真の整理をしていて椅子から落ちちゃった。おばあちゃん、写真をたくさん持ってたから…」 そうかと言い、武蔵はまたソファに横になるノエのそばまで来て跪く。 「ご飯食べてないだろ?何か食べるか?キッチン貸してもらっていい?俺さ、さっき市場にいたから車に年末の食料乗せてんだよ。お前と一緒に食べようとしてるやつ」 ノエにブランケットをかけ、武蔵は車から食料を運び出すよと言っている。 誰かをこの家にあげるのは久しぶりだ。父がたまに来るくらいだけど、祖母がいなくなってからの三年間は、誰も来ていない。 不思議な感覚だった。いつもひとりでいる家に武蔵がいると思うとホッとする。足首を痛めているから弱気になっているのかもしれないんだけど。 「んなぁっ!おおいっ!ノエ!お前、家でご飯食べないな?なんだこの冷蔵庫は。空っぽじゃないか!」 キッチンからいつもの武蔵の声が聞こえる。その声を聞き更にノエは安心して、ちょっと笑った。 リビングからチラッと見えるキッチンに武蔵がいる。ノエを背にしている武蔵に、更に問われる。 「ノエ、普段の食事はどうしてる?」 「えー…っと、朝は食べないでしょ。昼は…ほら、まかないがある。夜は、うーん、コンビニでおにぎりとか」 「そうだろうな…キッチンは全く使ってる気配がない。こんなに立派なキッチンがあるのにもったいないな。じゃあ、何食べたい?腹減ってるだろ?」 「いいの?うーん…と、お腹はすいてるかも…でも、何がいいかな」 車に積んでいた食料は、カニもあれば野菜もあるし、パスタも米もあるぞという。 「じゃあ…ノエの好きなトリュフのリゾット作るか?」 「えっ!本当に?いいの?」 「少し体力つけないと。お前、随分軽いんだな…びっくりしたぞ。もっと太ってもいいだろ」 さっき抱き上げてくれたことを言われる。細いとは言われるけど、自分では人並みだと思っている。武蔵に比べると背はだいぶ低いから、そう見えるのかもしれない。 「えー、太るのは嫌だよ」 ぷうっと膨れてそう言うと、武蔵はキッチンから笑ってノエを見ていたようで、目が合った。ちょっと胸がドキッとした。 その後は武蔵が作ってくれたリゾットと、サラダをペロッと平らげてしまった。相変わらず武蔵の作るものは全部美味しい。 食べ終えてから、病院からもらった薬を飲む。痛み止めだ。とりあえずそれを飲んだらウトウトとし、眠くなってしまった。 「ノエ?おばあちゃんの部屋に入ってもいいか?ちょっとだけ片付けしとくよ」 ウトウトしていたら声をかけられたので「うん、いいよ」と返事をした。 目を閉じていると、武蔵に頭を撫でられる。人に頭を撫でてもらうのも久しぶりだ。気持ちが良くて、すぐに寝そうだ。 頭を撫でられながら「寝てていいよ」と追加で言われた。それに対して「うん」と答えるのがやっとで、その後は記憶がない。 目が覚めたら夜になっていた。ブランケットがかけてあったから暖かくて熟睡してしまったようだ。 武蔵はどこにいるんだろうと、ソファから下りる。右足首を庇いながらひょこひょこと歩いて行くと、祖母の部屋にいる姿が見えた。 「武蔵さん?」と後ろから声をかけると武蔵は振り向き、凄い勢いでまたノエは横抱きにされた。 「起きたら俺のこと呼べよ。危ねぇな…」 「もう大丈夫だって…家の中では歩けるよ。もう下ろしてって…」 恥ずかしいから失礼な言い方になってしまった。色々としてくれているのにと思っているが、ツーンとした態度になってしまう。それに顔が赤くなっていくのが自分でわかる。武蔵が優しすぎて直視出来ない。 「安静にした方がいいって先生も言ってただろ?ん?どした?トイレか?」 結局、トイレに行くのにも横抱きのまま、連れて行かれる。ノエは人からこんなに過保護にされたことはないから、躊躇ってしまう。 「もう!武蔵さん!大丈夫だってば。ずっと抱き上げられてると恥ずかしいの!」 「恥ずかしいって、誰も見てないからいいじゃないか。お姫様抱っこは嫌か?じゃあ、おんぶする?」 何をするのも武蔵がやってくれる。ノエはリビングのソファに横になっているだけ。 夕御飯も武蔵に作ってもらい、後片付けまで全部やってくれている。 シャワーを浴びるのもひとりじゃ無理だから、俺が洗ってやると言われる。裸を見られるのは恥ずかしい。だからシャワーは自分でやるからいいと、頑なに断ったが、シャンプーでも、何でもしてやるぞと武蔵に何度も言われ、押し問答となる。 結局、シャワーはひとりで出来た。そりゃそうだ。足首もそんなに痛まなかったから、ゆっくりとした動作で気をつけていれば問題なさそうである。 だけど武蔵はシャワーから出てくるノエをドアの外で待っていて、歩かないようにと言い、また抱き上げてリビングまで運ばれた。 その後はリビングで髪を乾かされる。これは足首とは関係ないんじゃないか!と文句を言っても武蔵は聞いてくれない。ノエはソファに座ったままで、武蔵がブォーンとドライヤーをかけてくれている。 文句は言ったが、武蔵が髪を掬い上げる手の動きが気持ちいい。寝ている時と同じように、頭を撫でられるのが気持ちいい。武蔵の手に吸い寄せられ、頬を寄せてしまいそうになる。 武蔵にやってもらうことは全部嬉しい。好きな人にこんなに尽くされてしまい悶絶しそうだ。 武蔵が入れてくれたホットミルクを手にしていると、写真を数枚持った武蔵が、声を立てて笑いながらノエの隣に座ってきた。 「ノエのおばあちゃんは写真が好きなんだな。お前の小さい頃からの写真がたくさんあったぞ。ほら、こんなのも…」 手にしている写真はノエが大泣きしている小さい頃の写真だ。多分、2、3歳の頃のようだった。 「えーっ、何で泣いてるんだろうこれ。ひどいね、俺。ブッサイクな顔してるし」 「あははは、可愛いじゃん。泣き声が聞こえてきそうな写真だよな。何だろ?これ…おにぎりか?」 武蔵は写真の中のノエが持っているものが気になるらしい。写真を凝視しながらノエに聞くから、二人は頭をくっつけ写真を覗いて見ていた。 「違う…これお稲荷さんだ。そうだ!思い出した!おばあちゃんが作るお稲荷さんが好きなのに、誰かが食べちゃって一個しか残ってないって泣いてたって、昔おばあちゃんが言ってた。俺は覚えてないけど」 稲荷寿司が好きで祖母はよく作ってくれていた。祖母の稲荷寿司はよく覚えている。 「お稲荷さんか。中身どんな?具は入ってる?」 「えっとね、具は入ってないけど、ゴマだけは入ってた。あんまり酸っぱくなくて、甘かったから好きだったなぁ」 武蔵が祖母の部屋で片付けをしてくれた時に見つけた写真だ。なんてことない写真だけど、被写体は全てノエであり、泣いたり笑ったりしている思い出深いものである。 「おばあちゃんの部屋には天井まで届く棚があったでしょ?あれ全部写真だから…どうやって整理しようかなって思ってて。ほぼ処分しなくちゃならないのに」 全てを処分してしまうのは、胸が痛くなる。かといって、引越しするときにどれを持っていくかというと、選びきれない。 「えっ?なんで?なんで処分すんの?」 「この家、取り壊しするんです。来年の春頃かな。だから、それまでに俺はこの家から出て行かないとならないんです。ここは、父が家族のために新しく建て直しするって言ってるから、俺は引越ししないとなぁって…」 「…ふーん、そうか。ひとり暮らしになるのか?」 「まあ、そうですね。ひとりだからワンルームでしょ。荷物もそんなに持っていけないから。今から少しずつ片付けしてるんだけど…」 父に頼めば多少の荷物はどうにかしてくれる。それでもやっぱり処分するものが多くあると思う。 「じゃあ…この家で年末を過ごすのも今年が最後?」 「ですね」とノエは笑って答えた。 その後は、武蔵が祖母の部屋から数枚づつ写真をリビングに持ってきては、二人でそれを見て笑って過ごした。リビングはあっという間に写真の山が出来てきた。 子供の頃の自分は今より素直だったようだ。泣いてる写真もあるけど、笑っているものが多いような気がする。 祖母と二人で笑っている写真もあり、懐かしかった。ひとりじゃまだ悲しくて見れない祖母の写真も、武蔵と一緒だと不思議と笑って見れていた。 だからなのか、ひとりじゃない夜は楽しいと感じる。好きな人と一緒だからなのかもしれない。今からでも遅くないなら、写真の中の自分のように素直になりたいとノエは思った。 「じゃあ…ベッドどこ?連れてくよ。その後に俺は帰るからさ」 楽しいと感じる時間は短い。時刻は深夜近くになっている。いつものようにこの部屋にひとりになってしまうのが、普通のことなのにひどく寂しく思えた。 「あっ!そうだ!」 立ち上がり、ノエを抱き上げようとした武蔵が声を上げた。 「明日も来ていい?こっちで年越ししようぜ。お前、動けないもんな。カニとか冷蔵庫に入れてあるし…それに俺はもうちょっとあのキッチンで料理したいんだよな」 「いいの?明日もここでいいの?」 年越しは武蔵と一緒だと喜んでいたが、足首を痛めたことで、きっと年越しの予定は取りやめになるだろうなと思っていた。 それが、武蔵はここに来て、一緒に年越ししようと言ってくれている。萎んでいた気持ちが一気に膨らむ。嬉しくて思わず武蔵の腕を掴んでしまった。 「なんだよ、ノエ。いいに決まってるじゃん。明日は朝からいっぱい料理しようかな。あっ、鍵は貸りていっていいか?戸締りしてから帰るから」 嬉しくてノエは、うんうんと頷いた。写真の中のように少しだけ素直になれたような気がする。 ノエを抱き上げた武蔵はスイスイと廊下を歩き、ノエの部屋まで躊躇わず入っていく。ベッドにゆっくりとノエを下ろしてくれた。 「じゃあ…俺、帰るな」 「あの!」 立ち上がり、帰るそぶりを見せる武蔵を呼び止めてしまった。 「えっ!あ、うん…そうだよね。武蔵さん色々ありがとうございました。えーっ…と そうだ!明日!明日は年越しでしょ?」 呼び止めたけれど、何を言えばいいかわからなくなる。武蔵を帰したくなくて何とか言葉を繋げて喋っている。 もう少しいて欲しい。 帰って欲しくないと思ってしまう。 「まぁ、うん…そうだな。明日は着替えとか持ってこようかな」 「そうだよ!それがいいよ!だって年越しだよ?お酒だって飲むでしょ?そしたら車の運転も出来ないから…あっ、明日、布団出しておく。お客様用のがあるから、」 無意識に、武蔵の服の裾を引っ張ってしまっていた。帰らないで欲しいと、必死になっているのが伝わってしまいそうだ。 「あははは、布団?いいよそんなことしないで、俺はその辺で寝れるから。じゃあさ、プロジェクターも持ってくるよ。この前の映画の続き見ようぜ」 立ち上がり帰るそぶりを見せていた武蔵は、ベッド横に座りノエの顔を覗き込んでいた。よかった…まだ帰らないでいてくれるらしいと、ノエは少し安心したが、武蔵の服の裾を離すことは出来なかった。 「…映画?何見る?」 「何しようか…食事が出てくる映画はなぁ、ノエにまた怒られそうだしなぁ…」 武蔵が頭を撫でながら、優しく話しかけてくれる。武蔵の声と手が気持ちいいから眠くなってしまいそうだ。 「あれは?ミステリーシリーズのドラマ。あれ途中だったじゃん」 「あれはお前が怖いっていうから…じゃあ、ゾンビ?見る?あれも途中だったぞ」 「えーっ、年末にゾンビはなぁ。もっと楽しいのがいいな」 「そうだよな、楽しいやつにしようぜ。海外ドラマなんてめちゃくちゃあるから選び放題だぞ。ノエ…眠くなったら寝ていいぞ。寝たら俺は帰るから。寝るまでここにいるから」 ウトウトと眠くなってしまう。だけどこのまま寝たくない。寝たら武蔵は帰ってしまう。武蔵から帰るという言葉を聞くと寂しくなる。 「……やだ。寝たくない」 「もう眠いだろ。明日は朝から来るから」 「…やだ。まだ聞いてないもん」 半分寝ているかもしれないノエは、わがままを言ってしまう。 そう。まだ今日は聞いてないことがある。 いつも別れ際に武蔵が言うセリフだ。それを聞きたいとわがままを繰り返すと、武蔵は笑いを堪えている声を漏らしている。 「ん?…何が?」 「いつも言うこと…帰る時にいつも言う」 今なら素直に伝えられると思うのに、武蔵は今日に限って言ってくれない。 帰り際、武蔵はいつもノエに聞く。 『俺と付き合う気になった?』と。 なんで今日は言わないのだろう。好きで好きでたまらないのに、今まで可愛げがない態度をしてきたから、武蔵はもう聞かないのだろうか。それともそもそも、ノエと付き合う気はないからなのか。 それもそうか、付き合う気はありませんとノエがずっと答えているからだもんな。それに今聞かれても答えは同じだ。付き合いませんと言うだけだろうしと、眠い頭で考える。 付き合うってどういうことかよくわかんないけど、好きな人の気持ちはもっとよくわからない。 好きなのに。 好きな人に素直になれない自分の態度もよくわからない。考えるとますます眠くなってきた。 「明日は何食べようか…なぁ?ノエ…」 笑いを含む武蔵の声が好きだ。相変わらず頭を撫でられている。ずるいなぁと思いながら、ノエはストンと眠りに入っていった。
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